殿様は食べ物も前例踏襲

食べたいものを食べさせてもらえない

 島津斉彬のエピソードで、斉彬がニンニク料理を所望したら料理長が「歴代の殿様でニンニクを召し上がった方はいないから、ニンニクを出すことはできない」といって断った話をしました。

これは島津家だけの話ではなく、大名家の一般的なルールだったようです。

江戸時代は「天下泰平」の時代でした。

約260年間つづいた江戸時代においてもっとも重視された価値基準、それは「現状維持」です。

つまり「前例踏襲=変化させないこと」がいちばん大切でした。

それは食生活にまでおよんでいたようで、このような話が伝わっています。(読みやすくするために現代仮名づかいに改め、一部漢字を仮名にし、句読点とカギ括弧をおぎなっています)

毛利侯、紀州邸へ招待せられけるとき、いまだ口にしたることなき味旨き魚肉(うお)を饗せられければ、
「何という魚なるや」
と尋ねられしに、
「松魚(かつお)なり」
とありければ、帰邸ののち、命を御台所の吏に伝えて、
「以来時々松魚を料理して出せよ」
といいつけられたり。
料理方はこれまで慣例になき御所望を受けければ、御用部屋へ伺い出でけるに、評議まちまちにして決せず。
結局、急使を国元に馳せて、国老等の意見を問い合わすこととなりければ、国元の老職等はこの飛報に接するや、それは怪しからぬことなりとて直ちに一人の国老を江戸に上らせ、侯に諫言をたてまつらせたり。
侯は国老等の承知せざるを不平に思われ、
「これを食うて害なく、これを味わって旨き物を料理して出せよというに何の不都合かあるべきや。
かつ、彼の松魚は紀州の大納言も食せられ、将軍家にもまた食せらる。
しからば今余がこれを食したればとて、何の差しつかえがある」
と声荒らかに詰められけるに、老職は頭をたれたるままハラハラと涙を流し、
「これまで御家中一同末頼もしき君公と存じ上げ候いしが、只今の仰せの世上に漏れ候節は、さぞかし失望仕るべく候。
そもそも御当家は鎌倉以来の旧家にて、徳川一族のごとき新家にこれなく、徳川は天文(てんぶん:室町時代の元号、1532~1555)以来の新家に候えば、松魚はさておき、鰯(いわし)にても秋刀魚(さんま)にても召し上がらるべく候えども、御当家は彼と日を同じうして論ずべき家筋にこれなく候ゆえ、鎌倉以来の御家法をお破りなされ候ては、御先祖に対し申し訳これあるまじくと存じ候」
と諫めければ、侯は黙してその説を聞かれけるが、聞きおわりて首肯し、
「卿(なんじ)が申し立てるところ、もっともなり」
とて、前日の命令を取り消さしめけるとぞ。
この君あり、またこの臣あり、大国の深意測るべからず、四海波平かにして西の丸に有平糖の橋を渡すも、天下は枕を高くして安眠すべきの秋(とき)にあらざるなり。(川路聖謨)
【「六八九 毛利家の国老、自尊の見識を落さず」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫】


広重魚尽「鰹・さくら」(国立国会図書館デジタルコレクション)


毛利の殿様が紀州家でご馳走になったとき、はじめて口にしたカツオが美味しかったので、藩邸に戻ってから「ときどきカツオ料理を出すように」と命じました。

ところがカツオは殿様が食べた前例がなかったので、料理番が藩邸の重役に可否をたずねたところ藩邸では判断できず、国元の家老たちに問い合わせるという大騒ぎになりました。

殿様の希望が伝えられた国元の家老たちは「とんでもない!」と反対して、一人の家老がただちに江戸に行き、殿様に「カツオはダメです」と諫言しました。

すると殿様は怒って、

「食べても毒ではないし、美味しいのに、どこがいけないのか。

御三家の紀州藩主や将軍も召し上がっているのに、予が食べるのに何の問題がある!」

と詰め寄ると、国元からきた家老はハラハラと涙を流し、

「いままで家中一同が末頼もしい殿と慕っていましたのに、今の言葉が知れわたれば皆失望します。

そもそも毛利家は鎌倉以来の名門で、徳川のような新参者ではありません。

徳川家は天文年間に起った家なのでカツオはもちろん、イワシでもサンマでも召し上がればよろしいが、当家はレベルが違いますから鎌倉時代以来守ってきた家のルールを破っては、ご先祖様にもうしわけが立ちません」

と説いたところ、殿様はだまって聞いていたが、聞き終わってうなづき、

「そちの言うことはもっともだ」

と、カツオ料理を出せと言った前回の指示を取り消したという話です。

この話を語った川路聖謨(かわじ としあきら:江戸幕府の勘定奉行や外国奉行をつとめた能吏)は、このような君臣の関係を評価して、「雄藩の深意はうかがいしれないので、幕府も安穏としていられない」との意見を述べています。

川路は進歩的な考えの持ち主で斉彬たち一橋派を支持していたため、安政の大獄で左遷されて、その後辞職します。

引退後は病気で半身不随となり、薩長を中心とする官軍による江戸城総攻撃が予定されていた慶応4年3月15日に自害しました。

毛利家(=長州)に対する不安が的中してしまったと言えそうです。




幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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