暴れ隠居の友情が名君を生んだ?

島津家と池田家

 私見ですが、江戸時代の全大名の中で最高の名君は島津斉彬だと思います。

彼は島津家27代当主斉興の長男として生まれました。

母は斉興の正室弥姫(いよひめ)で、鳥取藩主池田治道の四女です。

池田家は岡山藩が本家で、鳥取藩は分家になります。

斉興と弥姫が結ばれたから名君斉彬が誕生したのですが、斉興の婚姻以前には島津家と池田家のつながりはありませんでした。

ではなぜこの両家が結びついたのか、それをうかがわせる面白い話があります。


ふたりの暴れ隠居

これは明治25年から31年にかけて『東京日日新聞』に断続的に掲載された幕末の逸話集『想古録』に掲載された話です。

岡山の隠君一心斉と薩摩の隠君栄翁とは、寛政文化の交、天下に隠れなき放蕩無頼の両大関にてありけり。
【「七四一 暴君、暴を以て暴君の暴を圧す(篠崎甚右衛門)」山田三川著 小出昌洋編『想古録2 近世人物逸話集』平凡社東洋文庫】

「隠君」とは隠居のことで、「岡山の隠君一心斉」というのは、岡山藩第5代藩主池田治政(はるまさ)です。

「一心斉」は治政の隠居後の号、同様に「栄翁」は重豪の号です。

江戸時代は相撲の最上位が大関だったので、「放蕩無頼の両大関」とは「ルール無用で好き勝手なことをするトップ2」ということになります。

本文を続けます。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)

栄翁はじめて岡山邸に招かれけるとき、一心斉自から中雀門を開いて出で迎えけるが、栄翁の前(さき)に立ちて案内しつつ入りけるとき、無作法にも腰を捻りて轟然一発大屁を放ちければ、栄翁すかさず腰なる大扇を抜き取りて、痣など出来よ、と一心斉の臀頭(しりこぶた)を力に任せてうちけるに、大胆なる一心斉も不意打の痛さに驚きて、「痛し痛し」と叫びつつ臀を抑えて走て門内に逃げ込まれたり。

重豪(栄翁)がはじめて岡山藩邸に招かれたとき、治政(一心斉)がみずから中雀門(ちゅうじゃくもん:庭の中にある門)を開いて出迎え、先導しながら無礼にも大きなオナラを一発はなったとき、重豪がただちに腰に差していた大扇で治政の尻を力まかせに叩きました。

治政はこの一撃におどろいて、尻をおさえながら「痛い痛い」と叫んで門内に駆け込みます。

次は座敷に通されたときの様子です。

すでにして座敷に通り、四方八辺(よもやま)の談話に笑いを催しけるとき、一心斉火鉢により掛り、大いなる彫刻(ほりもの)せし純金製の烟管(きせる)を取出して誇って栄翁に示されけるに、栄翁手に執りて一見しけるが、「大国の諸侯がかかる瑣細なる一器物を宝とし、誇り顔に人に示すとは何事ぞや」とて、折て庭前に投棄てければ、流石の一心斉も又々辟易し、是等の挙動に気を呑まれて深く栄翁を信じ、その後交情倍々(ますます)親密となりて、竟(つい)には莫逆の間柄となりけるとぞ。

座敷でよもやま話をしているとき、治政が火鉢に寄りかかりながら、りっぱな彫刻をほどこした純金製のキセルを取り出して、重豪に自慢しました。

重豪はそのキセルを手に取ってチラッと見たのち、「大国の諸侯が、このようなつまらないものを宝として、誇り顔で人にみせるとは何事だ!」

というと、そのキセルを二つに折って庭に投げ捨てたのです。

さすがの治政も気を呑まれて、すっかり重豪にやり込められてしまい、それからは重豪に心酔するようになりました。

その後二人はますます親密になり、ついには無二の親友となったのです。

この話は、篠崎甚右衛門(経歴不明)が語ったとされていますが、最後にこう書かれています。

けだし栄翁は一心斉が裏金の陣笠被りたる幕吏の横頬(よこづら)を鞭ちて、自ら松平内蔵守と名乗りたること、又白昼金紋先箱の行列にて芳原を巡廻し、幕府の禁令を第一番に蹂躙したることなど聞き居ければ、到底(つまり)一筋縄では行かぬ暴人なりと断定し、着々その鼻を挫きたるものなるべし。

重豪は治政が、大名でも道をゆずる『御使番』という早馬に乗った幕府の上級役人と出会ったときに道をゆずらないばかりか、手にした鞭で役人の顔を横から打ちすえ、役人がその無礼をとがめると「我は岡山の城主、松平内蔵守なり」と大声で名乗ってそのまま馬を走らせて去ったことや、松平定信が行った寛政の改革の倹約令に従わず白昼堂々大名行列で吉原を見て回ったことなどを聞き及んでいました。

それで、乱暴者の鼻をくじくために、治政を上回る乱暴さで彼を降参させたのです。

莫逆の友となった二人の間で、「孫の嫁を探している」「ウチにいい娘がいるぞ」という話が出てもおかしくありません。

じつは斉興と弥姫の前にも、弥姫の兄で鳥取藩7代藩主となった斉邦と斉興の妹操姫が婚約したのですが、斉邦が早逝したため流縁となっていました。

そんなことがあったにもかかわらず次の縁談を進めたところに、両家を結びつけたいという、重豪と治政の強い意志を感じます。

その思いが斉興と弥姫の結婚というかたちで成就し、名君島津斉彬が誕生したのです。


斉彬は信長・家康の子孫

正妻の子供は珍しかった」でも書きましたが、最初に生まれた男子の実母が藩主正室というのはほんとうに珍しく、島津家歴代藩主の中では斉彬だけです。

重豪も正室の子ですが、父重年が分家当主のときなので、母は大名家の姫君ではなく島津一族の娘です。

これに対して斉彬の父斉興は薩摩藩の世子でしたから、大名家の娘、弥姫を正室として迎えました。

弥姫の実子斉彬は、とうぜん島津家と鳥取池田家の両方の血筋を受け継いでいます。

これを系図でしめすと次のようになります。

島津斉彬略系図


鳥取池田家の初代光仲(みつなか)の父忠雄(ただかつ)は、池田輝政と後室(後妻)の督姫の子です。

光仲の父は徳川家康の孫、母は徳島藩主蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)の娘三保姫で家康と織田信長の玄孫になります。

余談ですが、池田家の本家となる岡山池田家は池田輝政の正室糸姫の系統ですが、糸姫の父は信長の家臣中川清秀なので、鳥取池田家は徳川家に近い自分たちの方が「本家より家格は上だ」と自負していたそうです。

ついでにいうと弥姫の母生姫は仙台伊達家の出身なので、伊達政宗も斉彬の先祖です。

母方の系図をあわせると、斉彬がそうそうたる戦国武将の子孫だということがよくわかります。

血筋を重んじた江戸時代において、これも大きな力になったことでしょう。





幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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