暴れ隠居の横綱

わがまま隠居

 幕末の逸話集『想古録』では、栄翁(島津重豪)と一心斉(池田治政)が「天下に隠れなき放蕩無頼の両大関」と語られていましたが、彼らをしのぐ傍若無人の横綱といってもよい隠居がもう一人います。

家斉将軍の父一橋治済(はるさだ)で、寛政3年(1791)に隠居し、穆翁(ぼくおう)と号していました。

一橋家は重豪の正室保姫の実家ですから、治済は重豪の義理の従兄弟になります。

島津家の博物館である尚古集成館の元館長芳即正氏によると、治済が重豪の住まいである高輪の薩摩藩邸をたびたび訪問したという記録が残っているそうですから、二人が親しかったことは間違いないでしょう。

この治済の人物像について、元旗本の田中安国は「傲慢無礼な人である、それには数々話もござります、実に一橋一位様というものは将軍の親爺であって何分手に余って困り切った人でござります」と語っています※1し、旧松前藩出身の歴史学者池田晃淵(こうえん)も「一ツ橋の御隠居は将軍の生父で我儘隠居と言われた方」と述べています※2。

※1 田中安国「田中安国君旧時蘭医桂川甫周宅に於て修学中時事見聞談」『史談会速記録 第137輯』

※2 池田晃淵「松前藩樺太交通事情(続)附二五話」『史談会速記録 第157輯』


江戸城通り抜け

治済が傍若無人だと語っている人は多いものの具体的なエピソードは意外と伝わっていないのですが、とんでもない話がありました。

江戸城の「通り抜け」です。

ご存じのとおり江戸城は将軍の居城ですから、厳重な警備体制をしき、無用の者は入れません。

大名でも登城日が決められており、それ以外の日に登城することは禁じられています。

格式で最上位の大名となる御三家であっても、このルールは変わりません。

尾張は元来勤王藩だった」で説明したように、井伊大老が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに反対した尾張藩主の徳川慶勝らは、「不時登城」つまり定められた日でない日に登城したことを理由にして処罰されました。

その江戸城を、治済はなんと日常的に通り抜けていたというのです。

元旗本の田中安国が明治37年の史談会で語った話を紹介します。

(治済が)大手の御門から桔梗の御門へ始終通り抜ける。
如何に将軍の一門でも天下の法を破っては棄て置く訳にいかぬ、殆んど困った。
【田中安国「田中安国君旧時蘭医桂川甫周宅に於て修学中時事見聞談」『史談会速記録 第137輯』】

繰り返しますが、用もないのに江戸城に入ることは禁じられています。

それにもかかわらず、治済は江戸城を近道として利用していたのです。

当時の地図を見てみましょう、江戸城の右下水色の四角のところが一橋邸、赤い丸が大手門、紫の丸が桔梗門(内桜田門)です。

たしかにショートカットしたくなる気持ちはわかりますが、これはルール違反です。

尾張屋版 江戸切絵図「御江戸大名小路絵図」(部分)
(国立国会図書館デジタルコレクション)


ちなみに、大手門内は下の図のようになっています。

赤い丸の大手門から登城した大名や役人は、その上にある下乗橋手前で駕籠からおりて、徒歩で城の玄関に向かいます。(御三家や御三卿の駕籠は下乗橋の先にある中ノ門の手前まで乗入れ可)

治済は大手門から入っても玄関に向かわず、左に進んで桔梗門(図では「内桜田御門」)から城外に出ていたのですが、これはあきらかにルール違反でした。

江戸城図(部分:国立国会図書館デジタルコレクション)


最初は将軍の父だからと黙認していた大手門の門番(10万石以上の譜代大名が務める)も、治済のたび重なる通り抜けに困り果てて、時の老中松平定信に相談しました。

定信もこの対応策に四苦八苦したようです。

田中の話を続けます。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)


通り抜け防止のため強面の真田を門番に

その時は閣老松平越中守(定信)に伺いが出て、(中略)越中守は大いに心配されて、その時私共の本家の親戚へ御話に
「十万石の者で少し腕力のある者は無かろうか」
と言うことで、それから段々話に依って
「信州松代の真田(幸貫:ゆきつら)は御譜代でないが彼の人が宜かろう、彼は分家の真田の次男であったが聖堂に這入って学問もあり、または市中に出て天麩羅の立食いもするし、下情にも通じなかなか胆力がある、彼ならば大手の御門の処置が出来よう」
「それでは(真田に)話して見よう」

と云うことで、一日話して見た。

田中の話では、定信が真田幸貫を花見に招き、二人だけの席で、幸貫に老中になる気があるか打診し、前向きな回答があったので、「老中になるには段階を経ねばならない、まずは大手門の門番からはじめ、奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を務めあげて、老中となる」と説明します。

幸貫が承諾したことから、定信はただちに幸貫を大手門の門番に任命しました。

田中の話を続けます。

真田家は事情を知らずに勤めて居ると、(治済が)前の通り、「下にいろ下にいろ」で通り抜ける。
平日は主人(藩主幸貫)が出て居らんで、番頭始めとして家来が出て勤めますが、御通りぬけであるものであるから主人に言うと、事実其通りである。
其事を(老中に)伺いに出した。
「一橋一位様、表大手御門通り抜けであるが、如何仕ろう」
と、越中いわく

「それはならぬ」

「それでは相当に取扱って宜しいか」

「それは宜しい」

御老中の内命があり、喜んで自ら麻上下で行って控えて居った。

すると昔の五つ半(午前9時)頃に下に下にで出て来る。

大手門を入って百人番所の前より左へ曲がると真田が大音に

「御城内でござる、御通りぬけは出来ませぬ」

というと、駕籠の内から覗いて、其内に供頭が来て、

「何人でござるか」

「何方でござる」

と云って供頭に挨拶すると同時に

「大手御門番真田信濃守自身に罷り出た」

と云うと、一橋様は登城と云って百人門を這入って仕舞い為された

その後の話ですが、治済が城内に入るのを見て将軍に告げ口するつもりだと感じた幸貫は、すぐさま老中定信に経緯を報告しました。

報告を受けた定信はただちに将軍に目通りを願い出て、家斉に「今日、大手門にて真田信濃守と申す者が抜群の働きをいたしましたが、ご褒美は如何致しましょうか」と言上します。

おそらく治済から話を聞いていたであろう将軍が口ごもっていると、近習の夏目左近将監が将軍の声色をまねて、「宜きように取扱え」と返しました。

定信がさがると夏目は急病といって退出し、将軍のふりをして発言した責任をとるため、帰る途中で切腹しました。

自分のせいで夏目が切腹したことを知った治済は、それ以来通り抜けを止めたと田中は語っています。


事実はちがっていた?

ただし、この田中の話には事実誤認がいくつかあります。

まずは老中松平定信が大手門の門番を探すところで、田中の本家にあたる親戚に相談して真田幸貫を推薦されたとありますが、幸貫は定信の実子(次男)で白河藩松平家から松代藩真田家の養子に入った人物です。

旧松代藩出身の宮本仲はその著書『佐久間象山(増訂版)』の中で、幸貫のことを「元来聡明穎智にして然も父楽翁公の薫陶を受けたれば、治国の要道は勿論、文雅の嗜も深く、武術は特に堪能にして、弓馬、柔術、剣術、馬術何一つ其奥義を極めざるはなく、身の丈抜群にして音声は遠鐘の如く、極めて質素なる服装にて江戸の市中を闊歩し、以て当時優柔華美なる貴公子の間に嶄然(ざんぜん:ひときわ目立ってすぐれている)頭角を現わすという痛快な人物であった」と述べています。

また、幸貫は外様としては異例にも天保12年(1841)に老中になっていますが、大手門の門番からはじまる通常の昇進コースをたどってはいません。

したがって、真田幸貫が一橋治済の通り抜けを止めたというのは田中の勘違いでしょう。

とはいえ治済の傍若無人ぶりから考えると、江戸城を通り抜けて関係者を困らせたというのは大いにありそうな話です。

そしてこのお騒がせ隠居によって、朝廷を巻き込んだ大騒動がもちあがるのですが、それは次回に‥‥。





幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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