将軍の岳父は飛ぶ鳥を落とす
大奥の威勢が岳父におよぶ
しばらく御所の話を続けましたが、ふたたび斉彬の曾祖父・島津重豪に戻します。
「重豪、将軍の岳父に」で説明したように、重豪の娘茂姫は一橋家に嫁ぐはずでしたが、婚約者家斉が11代将軍になったことから将軍家の御台所として迎えられました。
大名は将軍の部下なので、重豪が薩摩藩主のままだと、家斉将軍は妻の父が部下にいるというややこしい立場になります。
それを避けるため、天明7年(1787)に重豪は43歳で隠居して、藩主の座を息子斉宣(なりのぶ)にゆずりました。
しかしそれは形ばかりで、薩摩藩の実権は依然として重豪が握っていました。
名目上藩の責任者は藩主の斉宣ですが、じっさいには重豪が藩を動かしていたのです。
権力はあるが責任はないという立場になった重豪は、それまで以上に自由奔放なふるまいをして、周囲の人びとを振り回しました。
島津家の事績調査員だった市来四郎が史談会でこんなエピソードを紹介しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)
薩摩では古老の人々の言うには、「天下の政治は大奥政治」(大奥政治とは五代将軍より、特に大奥女中の威権はなはだしくなったそうです、以後大奥は権力を振るうた所で:原注)という名があったそうです。
将軍家の老女なんぞは至って威権の強いもので、閣老御側御用人なども老女のためには左右された様子でござります。
薩摩でもその風が自然移りて、大奥政治と称えた様子で、家老などは老女なんどをはばかった様子でござります。したがって、御台様の親様でありますから、営中老中なんぞは重豪様の鼻息をうかがうの事情もあった様子で、諸大名にも都合をうかがうようなことがあったそうです。
そこで幕役はもちろん、諸大名も高輪屋敷を訪う人多く、常に人馬門前に輻輳しますから高輪下馬と唱えたそうです。
【市来四郎「薩摩国風俗沿革及国勢推移の来歴附二十六節」『史談会速記録』第34輯】
島津重豪肖像(ウイキメディア・コモンズ)
将軍専用の狩場で鷹狩り
以前「老中vs.大奥年寄」で老中水野忠邦が大奥年寄の姉小路にやり込められた話を紹介しましたが、大奥トップである御台所の父親ですから、幕府の役人だけでなく諸大名も重豪のご機嫌をとるため、彼が住む高輪の薩摩藩邸につめかけていました。
しかし、実の父娘でもあまり会うことはできなかったようで、市来は先ほどの話につづけてこのように語っています。
当時の風は御台様は御子でござりますけれども、親に逢うことは滅多に出来ぬもので、三年に一遍とかいう位で、御逢いなさるも紅葉山茶屋(江戸城内の、紅葉山と呼ばれる丘にあった休憩所)で逢われたそうです。
始めは御儀式上でお逢いなさるる時は、遙かの所より御父さんが御出なさると「目出度し」という御一言位のものであったそうです。
そうして御別席で御手自ら御茶を下さるるということで、御父子の間ゆるゆるの御話もなされぬという事でござります。
市来によれば、親子が会えるのは三年に一度くらいで、しかもくつろいだ話をすることもできなかったようです。
あるとき重豪と茂姫の面会中に家斉将軍が現れました、ふたたび市来の話をつづけます。
ある時紅葉山の御茶屋で御逢いの節、将軍も御出になりまして、ゆるゆるの御話しになりましたということです。
そこで御庭では御馬拝見とか御能拝見とかあったとかで、その時は将軍とは御同席で御話もあったそうです。
その時のことに、将軍様が「何か望みのことはないか」ということでありましたら、公(重豪)「何も望みはござりませぬが、御鷹場で沢山な鶴雁などの鷹狩を致したい」とおっしゃったところが、将軍は「それはやるが宜い」とおっしゃったそうです。
将軍が直に許されたからよりして、後日浦和辺に鷹狩に御出になりて、自由気儘に放鷹せられたそうです。
そこでその筋の役人共これを見て驚いて差し止めたところが、「将軍より御直に許可を得てやるから」と、近習のものに言わしめられたので、役人も仕方がなくて見過ぎまして、(獲物を)沢山得られたそうです。御台様の御父さんでありますから流石法に照らすことも出来ざるも、法外のことだから、その役人はその筋へ届出たがため、罪を近侍の者に負わせ三四人の者八丈島に流されたでござります。
そんな事で済むという位な勝手をやった人でござります。
テレビドラマの『暴れん坊将軍』では、吉宗が「予の顔見忘れたか!」というのが決め台詞ですが、実際には将軍が大名と口をきくことはまずありません。
江戸城内の儀式などでも、将軍が出る前から大名は頭を下げていて、将軍がいる間中顔を上げることはできませんでした。
『大名のふだんの食事は?』で紹介した旧広島藩主の浅野長勲(あさの ながこと)は、
「(天皇)陛下に拝謁するには、お顔を拝することが出来るのですが、将軍の方はそうではない。将軍の方から御覧になるだけで、こちらから仰ぎ見ることは出来ません」
と語っています。【「浅野老公のお話」三田村鳶魚『武家の生活』中公文庫】
家斉将軍が重豪に話しかけたのは異例の厚遇で、将軍専用の狩場での鷹狩を許すなどは超絶の待遇となります。
それで重豪は堂々と浦和の将軍専用狩場に行って、思う存分鷹狩を楽しみました。
狩場の役人が制止しようとしても、将軍の岳父である重豪の近習から「将軍の許可を得ている」と言われては、止めることができなかったのでしょう。
「飛ぶ鳥を落とす勢い」という言葉のとおり、重豪は将軍専用の狩場で鷹狩をして、飛んでいる鶴や雁を落とした(しとめた)のです。
その場では黙認した狩場の役人ですが、黙っていては自分の責任問題になるので、とうぜん上司に報告します。
幕府としては、いかに将軍の許可があったとしても、そのような前例を作るわけに行かないので、処罰として「許可を得ている」と役人に告げた側近数名が八丈島に流されたという事件です。
市来が「そんなことで済む」と言っているのは、ふつうなら藩の重役が切腹するレベルだということでしょうか。
このように傍若無人なふるまいをするので、重豪は「高輪下馬将軍」だけでなく、「暴隠居(あばれいんきょ)」とも呼ばれていました。
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