佐久間象山と西郷隆盛
幕末の先覚者佐久間象山
佐久間象山(さくま しょうざん、地元では「ぞうざん」と呼ぶのが一般的らしい)は信州松代藩士で、幕末を代表する思想家です。
彼は儒学(朱子学)に加えて洋学(蘭学)を学び、西洋兵学とくに砲術の大家として有名で、その進んだ思想から「幕末の先覚者」と呼ばれています。
注目すべきは象山の門人で、勝海舟(妹が象山の妻)、吉田松陰、橋本左内、坂本竜馬、中岡慎太郎、河井継之助(長岡藩家老)、小林虎三郎(長岡藩士、米百俵で有名)、山本覚馬(会津藩公用人)、真木和泉(久留米水天宮神官、禁門の変で自刃)、宮部鼎蔵(熊本の志士、池田屋事件で自刃)など幕末史の有名人がずらりとならんでいます。
宮本仲(みやもと ちゅう)が昭和15年(1940)に岩波書店から出した伝記『佐久間象山 増訂版』には島津斉彬とも交流があったと書かれています(具体的にどうだったかは不明)。
義理の兄(といっても歳は象山の12歳下)の勝海舟は、象山のことをこう語っています。
佐久間象山は物識りだったよ、学問も博(ひろ)し、見識も多少持って居たよ。
しかし、どうも法螺(ほら)吹きでこまるよ。
(中略)
顔付きからして既に一種奇妙なのに、平生緞子(どんす)の羽織に、古代袴の様なものをはいて、いかにもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気(はき)の強い男だから、漢学者が来ると洋学をもって威(おど)しつけ、洋学者が来ると漢学をもって威しつけ、ちょっと書生が尋ねて来ても、じきに叱り飛ばすという風で、どうも始末にいけなかったよ。
【勝海舟著 江藤淳・松浦玲編『氷川清話』(講談社学術文庫)】
義兄弟にしてはずいぶんと厳しい見方ですが、象山が尊大な態度で傲岸不遜だったのはまちがいないようです。
ついでながら、勝が象山の顔付きを「一種奇妙」といっているのは、象山の耳のことでしょう。
前出の宮本仲は、このように語っています。
(象山)先生の人相の特徴は、正面からは両方の耳を見ることの出来ない点であった。
私は常に注意して見て居るが、如何に豊頬の人でも正面から耳の見えぬ人はない。
先生の耳殻は大きいけれども薄く、後に付着するほど傾いて居った。
従って一向に見えなかった訳である。
先生の親友三村晴山はかつて、正面から耳の見えぬ人は世にその名の顕われる相貌だと評し、先生自らもまた、「乃公(だいこう:自分)の耳は天下後世にその名を知らるるの相だ」といって自慢されたということである。
【宮本仲『佐久間象山 増訂版』】
佐久間象山(国立国会図書館デジタルコレクション)耳が写っていません!
幕府に招かれて上洛
安政元年(1854)象山は、密航のためペリー艦隊に乗り込もうとして逮捕された吉田松陰に連座して処分を受け、松代で蟄居の身となりました。
文久2年(1862)の暮れにようやく蟄居を解かれた象山は、元治元年(1864)3月に幕府より招かれて上洛します。
象山が京都に着いたのは3月29日で、4月4日に二条城で幕府の辞令を受けとりました。
辞令に書かれた役職は「海陸御備向掛手附御雇」なので、海軍および陸軍の軍事アドバイザーといったところでしょうか。
象山到着を知った徳川慶喜は4月12日に象山を招きました。
直前の3月25日に「禁裏守衛総督・摂海防御指揮」に任命された慶喜は、象山の知見を必要としていたのでしょう。
慶喜は辰の下刻(午前9時ごろ)から正午まで象山の話を聞いていましたが、登城時刻となったためにやむなく打ち切りました。
象山は翌々日の14日に、訪問時に語りきれなかったことを建白書にして慶喜に提出しています。
薩摩藩も象山を招こうと西郷を派遣
象山の知見を必要としたのは幕府だけではありません、島津久光も象山の考えに共感して薩摩に招こうとしました。
その使者にえらばれたのが西郷隆盛です、ふたたび宮本仲の『佐久間象山 増訂版』から引用します。
先生が上洛して間もなく、当時滞京中の鹿児島藩主島津忠義の実父島津久光は、その臣高崎兵部(正風:原注、実は五六の間違い)を遣わし、先生に就いて屢々(るる)その意見を問わしめた。
久光は夙(つと)に開国説を抱く者であったから、深く先生の卓見に共鳴せる結果、自藩に先生を招聘(しょうへい)せんと欲し、西郷吉之助をして説かしめたが、先生は既に幕府の徴命に応じて上洛したのであるから、これを謝絶した。
当時西郷もまた屢々先生を訪問して国事を談じた。
【宮本上掲書】
西郷はのちに勝海舟と会ったあとで大久保利通に出した手紙においてこう語っています。(わかりやすくするため現代文に書き直し)
(勝は)どれだけ知略のあるやら知れないように見受けました、英雄というべき肌合いの人で、仕事ができるという点では佐久間(象山)より一段上でしょう。
学問と見識においては佐久間が抜群ですが、今のご時世においてはこの勝先生しかないと、ひどく惚れました。
【元治元年9月16日付書状】
知略と実務能力は勝海舟が上だが、学問と見識では佐久間象山が抜群だという評価です。
じつは西郷は象山とはしっくりいかなかった?
宮本の伝記では薩摩藩士が象山に会った順番は、最初が高崎五六、次に西郷隆盛となっていますが、実際はその逆だったようです。
明治28年の史談会で高崎五六がこのように語っています。
<岡谷繁実>あなたが佐久間象山のところへ御出(おいで)になった御話を伺います。
<高崎五六>あれは初め西郷が往ったが、西郷は一箇の武人なり、向こうは大学者であるから議論が合わなかったと見える。
面倒くさかったと見えて、そこで私に往ってくれということで、私が往くことになった。
そうして久光公が開港の詔を発したり、何かした手続きを話したところ、象山大いに惚れ込んで、「今天下に久光公に及ぶ者はない」。
【高崎男(五六)国事鞅掌に関する事歴附四十九節」史談会速記録第42輯】
「開港の詔を発した」というのは、元治元年1月27日に出された孝明天皇の宸翰において「軽率に攘夷の令を布告」し「故なきに夷船を砲撃」したことを強く非難するなど、それまでの攘夷一辺倒から開国を容認するような表現になったことをさすものと思われます。
じつはこの宸翰の草稿は久光が作成したもの(島津家に草稿が残っているそうです)だったので、高崎が象山に宸翰の裏話を語ったのでしょう。
そうして高崎は、武人と学者だから議論がかみ合わず西郷が面倒くさくなったのだろう、と言っています。
議論がかみ合わないこともあったでしょうが、傲岸不遜な象山と謙遜のかたまりのような西郷では、性格がまるで正反対です。
西郷が高崎に交替してもらった原因は、性格の不一致ではないかと思わざるをえません。
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