鳥羽伏見の古戦場巡り(番外編 薩摩藩戦死者碑)

以前に旧幕府軍の戦死者慰霊碑を紹介しましたが、戦死者はとうぜん新政府軍側にもいます。

今回は薩摩藩の戦死者石碑を見ていきましょう。

『戊辰戦記絵巻』より「大将軍薩兵負傷者を慰視(部分)」


相国寺林光院 合葬墓

最初は御所の北、臨済宗相国寺派大本山相国寺の塔頭林光院にある「甲子役・戊辰役薩藩戦死者墓」です。

林光院と薩摩藩の関係は戦国時代にさかのぼります。

島津家17代の島津義弘が関ヶ原の戦いで敗れて薩摩に帰還するとき、堺の豪商田辺屋(今井)道与が義弘をかくまいました。

余談ですが、このとき義弘はお礼に渡すものを持っていなかったため島津家秘伝の薬の製法を教えたとのことで、これが田辺製薬(現在の田辺三菱製薬)のはじまりだそうです。

この道与の嫡孫が林光院5世住職梵竺和尚となって、義弘から田辺屋に贈られた義弘の彫像を遷座供養したので、その後も島津家との縁が続いたとのこと。

幕末、錦藩邸では手狭になった薩摩藩が相国寺の土地(現在の同志社大学今出川校舎の場所)を借りて二本松藩邸を造っています。

同志社大学今出川校舎西門前にある薩摩藩邸跡の石碑


薩藩戦死者墓

薩藩戦死者墓は林光院の横手にあります。

もとは隣接していたのでしょうが現在は住宅に囲まれています。

墓石に甲子役・戊辰役とあるのは、禁門の変の戦死者と鳥羽伏見の戦いの戦死者を合葬しているからです。

玉垣があるため近づくことができずわかりにくいのですが、台座にはめ込まれている陶板に戦死者の名前が記されています。


東福寺即宗院 東征戦亡之碑

臨済宗東福寺派大本山東福寺塔頭の即宗院は島津家6代(大隅守護職)氏久の創建で、京都における島津家の菩提寺です。

そのため、京・大坂で亡くなった藩士の墓があり、その墓地を見下ろす丘には戊辰戦争で戦死した藩士たちを供養する「東征戦亡之碑」が建立されています。

この碑に刻まれた524柱の氏名は西郷隆盛の揮毫によるもので、戦死者を弔うため即宗院に半年間滞在し斎戒沐浴して書いたとのことです。

一般公開は新緑の時季(不定期)と紅葉の時期だけなので、写真は昨年の11月に訪問したときのもの。

なお、藩士の墓所には寺田屋事件で死亡した鎮撫使の道島五郎兵衛や生麦事件の奈良原喜左衛門らの墓がありますが、こちらは公開されていません。

紅葉の下に案内板がありました。左の塀の内側は京都市指定名勝の庭園

東征戦亡之碑(横に並んだ5基に戦死者の氏名が刻まれている)

西郷隆盛の署名



大黒寺

伏見藩邸近くにある真言宗のお寺、元和元年(1615)に島津家18代家久によって武運長久の祈願所と定められ、以来薩摩藩との関係が深いので薩摩寺とも呼ばれるそうです。

寺田屋事件の死亡者のうち、藩命で鎮撫使として赴いた道島は藩の菩提寺である即宗院に埋葬されましたが、上意討ちにあった有馬新七らはこの大黒寺に埋葬されました。

こちらの墓碑銘も西郷隆盛の揮毫です。

大黒寺(右横から入ることができます)

(有馬新七ら)伏見寺田屋殉難九烈士之墓

有馬たちの墓の向かい側には宝暦治水(木曽三川改修工事)を指揮した家老平田靱負の墓もありました。

平田靱負翁之墓

大黒寺の近くにある伏見藩邸跡の石碑

橋を渡った突き当たりにあります



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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