頑固爺さん大原重徳と勅撰神道碑
先日東京に行く用事があったので、ついでに谷中墓地に行きました。
目的は幕末著名人の墓めぐりです。
有名どころでは、最後の将軍慶喜、老中首座阿部正弘、宇和島藩主伊達宗城、次の一万円札になる渋沢栄一、薩英戦争の和平交渉を行なった重野安繹や村田銃の発明者村田経芳などの旧薩摩藩士も眠っています。
大原重徳勅撰神道碑
じつは一番見たかったのは、文久2年に島津久光をしたがえて江戸参府し、幕府に「一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老(政事総裁職)にせよ」という勅命を呑ませた大原重徳の墓所でした。
というのも、大原の墓所には勅撰神道碑があるからです。
神道は「シンドウ」と読み、この『神』は八百万(やおよろず)の神様ではなく、人の霊のことです。
人の霊が眠るところ、つまり『墓への道』が神道で、その道に建てられて、故人の履歴や功績を説明するのが神道碑というわけです。
このような碑は誰でも建てられるものではなく、国家に貢献した人に限ります。
なかでも勅令によってつくられたものは勅撰神道碑とよばれ、全国に8基しかありません。
すべて維新の功労者で、大名が島津久光と毛利敬親、功臣が大久保利通、木戸孝允、広沢真臣、公家が岩倉具視、三条実美、そして大原重徳です。
大原の墓所は乙6号5側にあり、正面から見るとこんな感じです。
画面の左に見えるのが神道碑、石ではなく銅製です。
説明板にはこう書かれています。
神道碑を見ると、文久2年の記述もありました。
頑固の攘夷家
この大原について、福井藩の歴史書である再夢記事にこう書いています。(分かりやすくするため現代文にしています。原文はこちら。)
大原殿は六二歳で、有名なる頑固の攘夷家である。
先年(老中堀田)備中守が上京したとき、武家伝奏の坊城(俊克)が幕府にくみするのを憎んで、移動の途中に刺殺しようと走り寄って駕籠の簾を払ったところ、人違いだったのでそれを果たせなかったほどの激烈老人だ。
このたびの勅使は薩摩と同行であるし、前途の艱難を畏れて堂上の人々は誰もお受けしなかったのに、彼は隠退の身でありながら自ら請うて勅使になった。
【中根雪江『再夢記事』文久2年6月10日】
文久2年に勅使に任命されたとき、それまでの家格前例をやぶって左衛門督(さえもんのかみ)に任命されますが、これは朝廷の警備長官というもので武士のポストでした。
江戸に到着して初登城の際、将軍と白書院で対面するに際し、役人が「勅使や伝奏の方は帯刀をはずしていただいております」と言ったので、大原は「私は左衛門督という武官である。主上の御前でも太刀を取らぬのだが、将軍の前だから取れというのはどうかと思うが、しきたりというのであれば」と答え、役人に「あなた様は武官でいらっしゃるので、そのままで結構です」と言わせて、やりこめています。【島津久光公実紀 巻二】
江戸城では玄関から先はひとりになるので、初登城のときには大名でさえ心細く思うそうですが、少しもひるまないところに大原の意気込みがうかがえます。
またさきほどの再夢記事には、白書院での対面が終わったのち、春嶽が「勅意の趣き、ありがたき御次第」と礼を言い、同席の老中たちも「ありがたき次第」と言ったとき、大原は「何がありがたいのじゃ!」と咎めたことも書かれています。(春嶽がすばやく、「叡慮をありがたく存じ奉りました」と言って収めたようです)
大原重徳(京大付属図書館所蔵)
新政府の態度急変に怒る
将軍慶喜が大政奉還を行なったのは慶応3年(1867)10月でした。
それから半年もしない翌年2月に、各国公使が御所に招かれて明治天皇に拝謁をゆるされました。
このとき朝廷には外国人の接遇を知っている者がいなかったので、岩倉具視が松平春嶽から幕府のやり方をヒアリングしています。
この外国公使謁見ということを聞いて怒ったのが大原です。
早速春嶽のところに駆けつけて、文句を言いました。
春嶽の著書には、大原のこのような言葉が紹介されています。(仮名遣いは現代文に修正)
昨年十二月八日までは、兵庫開港等の御評議もこれあり、かつ攘夷のこと専らにして、朝廷はもちろん、徳川家へも無理に攘夷を命じられ、諸藩へも攘夷の事を命じられ、日本全国尊王攘夷は、朝廷の御主意と皆存じおり候。
未だ去年十二月九日より未だ百日もたたざるうちに、外国人の参内もこれあり候などは、私共の合点いかざるところにして、私の考えには、御一新前、朝廷攘夷をもっぱら唱えなされ候は、畢竟徳川家兵馬の権および天下の政務を執りたいためとの思し召しにて、徳川家を潰すために攘夷を唱えられ候て、御一新と相成り候以来は、にわかに外国人謁見も始まるといえば、あまり忽然反対の御処置にして、徳川家へ対され候ても、余り御不義理なり‥‥
【「大原重徳懐旧のこと」松平慶永『逸事史補』】
幕府にはさんざん攘夷を迫って苦しめておきながら、自分たちが政権を取ったらとたんに外国人と交際するというのでは、徳川家に対して顔向けできないだろうと怒っているのです。
私は大原のこの一途なところが好きで、墓に手を合わせてきました。
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