斉彬、西郷の資質を見抜く
重野安繹
(『重野博士史学論文集 中巻』より)
優秀な下級武士を庭方に配属
島津斉彬が西郷隆盛を登用するにあたって、「庭方」配属を願い出るように指示した話をご紹介しました。
西郷は城下士としては最下層の御小姓与(おこしょうぐみ)ですから、殿様の側近くに仕えることはできません。それで「庭方勤めを願わせよ」と福崎に指示したのです。
庭方というのは、庭師のことです。西郷はふだんは庭師の仕事をしていて、斉彬が庭にでてきたときに密命を受けて行動するという役割です。
幕府には「お庭番」と呼ばれる忍者集団がいて将軍の密命で動いていたことがよく知られていますが、薩摩藩の「庭方」も同様で、他の藩士に知られることなく、藩主直属のメッセンジャーとして動いていました。
島津家事蹟調査員で斉彬のもとで集成館事業にたずさわった市来四郎も庭方でした、彼は明治26年の史談会でこう語っています。
私共の職務も御庭役というは名義でござりました。軽い役目で御座敷へ通って御用を伺うことは出来ません。表御側の別が厳重な御規則でござりました。其処で此の御庭役と申しまするは、御庭より御縁側に参られるもので、即ち幕府の御庭番に擬したものであったそうでござります。
斯く厳格な御規則は安永天明頃よりのことで、夫れ故機密な事は御庭役が致して居りました。西郷なども御庭役で機密の御用は直命になりて運動を致したでござります。
【市来四郎「故薩摩藩士中山中左衛門君の国事鞅掌の来歴附二十五節」 史談会速記録第18輯】
当時は身分制社会で、家柄によって就ける役職が決まっていましたから、下級武士出身の西郷や市来は城中で殿様と直接話ができる職位にはつけません。
しかし、庭であればそのような制約がなくなります。殿様が近くにいる庭師に「あの枝を切れ」と直接命じるのは普通のことでしょう。
殿様が下級武士と話をしたければ、庭方に任命するのがいちばんの近道です。
また、庭先であればまわりに聞く人もいませんから、秘密の指示もだせるわけです。
市来が語っているように、庭方の西郷がじっさいはどんな仕事をしていたかを他の藩士は知りませんでした。
西郷の役割は機密情報のメッセンジャー
当時西郷がはたしていた役割について、西郷と一緒に大島に流されて友人となった重野安繹(しげの やすつぐ:薩英戦争の和平交渉を担当した人物、歴史家で日本最初の文学博士)がこのように語っています。
君辺には、家老・用人・側役などがあって、筋々を経て殿様に拝謁しなければならず、御沙汰も受けなければならぬ。
それを御庭方を置いて、突然何も斯(か)も機密の事は直談をして「サア手前は水戸老公へ往け、越前公へ往って斯々(かくかく)申上げい」と云うように走り使いに使った。
それが南洲の勤(つとめ)であって、役儀は至って低し、目の付かない処であるから、内外の嫌疑も受けない。併しながら機密に預って居った。
【重野安繹「西郷南洲翁逸話」 『重野博士史学論文集 下巻』】
江戸時代の大名というのは不便なもので、少し出かけるにもたくさんの家来を連れたぎょうぎょうしい行列が必要でした。
そのため、他の大名との連絡は近くにいても手紙を出すことが多かったのですが、手紙に書ききれない細々としたことは、手紙を持参した家来に口頭で伝えさせました。
したがって、殿様の意図をきちんと理解して説明できる家来に届けさせる必要があります。それに選ばれたのが下級武士の西郷でした。
当時の状況について、重野はこう語っています。
其時分は大名と云うものは、なかなかヅカヅカと出ることは出来ず、又人を招くにも余程大業(おおぎょう)なもので、何分交際をするにも不自由でたまらぬから、側使(そばづかい)の藩士の者に自分の意を授けて、どこへ往けあすこへ往けと言って、走り廻らせる人才(じんざい)がなければならぬ。
それに南洲が見立てられて、使われて居った。
(中略)
順聖院(斉彬)と云う君公は誠に胸の広い人で、人を使うことの上手で、尤も人を知ることの明かなる人君であった。
南洲は学問はないが、走り廻るには宜しい。何処へ往っても人が信ずる人間である。又どんな事を言い付けても、決して危険のない者と云うことを能く見取って居られる。
又文学上の事は、何もかも皆私に委任して、書生の引立てから、諸藩の文学上の交から、皆私にさせるが宜しいと言って、役割を定めて人を使う人であった。
【重野前掲書】
重野は昌平黌の舎長、今で云えば東大首席のようなものでしたから、学問がらみの案件は重野にやらせて、政治向きのことはもっぱら西郷が勤めていたようです。
「南洲は学問はないが」という言葉は重野のプライドからの発言でしょうが、西郷が「何処へ往っても人が信ずる人間」というのは、まさにそのとおりだと思います。
また、「どんな事を言い付けても、決して危険のない者」は、彼の責任感と実行力をしめしています。
斉彬は西郷のこのような資質を見抜いたから西郷を「国の宝」と考えて、彼を育成しました。
斉彬は自分が西郷を直接教えただけでなく、他藩士との交流の中で成長させるようにもしむけています。これも重野の話です。
水戸とか越前とか肥前とか云うところの藩々は、皆学問に志のある君公であるから、いづれも南洲のような書生を江戸へ出してある。
これは学問の為めばかりではない。当時の時勢紛擾中、内外事情探索等には、屋敷詰の俗吏輩では役に立たぬから、書生を利用して、学問の傍ら他藩人と広く交際させたものである。【重野前掲書】
越前福井藩で西郷のような役割をになっていたのが橋本左内です。西郷はこのような諸藩の優秀な「書生」たちと交流することで、人脈をひろげるとともに、知識やものの考え方も成長させていきました。
西郷は取立てては功を成さぬ
勝海舟は、島津家の事蹟調査をしていた寺師宗徳(てらし むねのり:市来四郎の甥)にこのような話をしています。
鹿児島にもアレ丈(だ)け人が居っても順聖公の内心は知らぬ。西郷は独り知って居る。アレは国情があって、身分の低い者を急に取立てる事が出来ず、又そうしては当人の為めにもならず、其儘(そのまま)に置かれた。その深慮には感心した。
西郷ほどの者は取立てて貰うても喜ばず、庭造りで居て機密に与(あずか)るから一生懸命にやる。
唯吉之助と云う者があると云うことは仰った。お取立てがありますかと云うと、今取立てては功を成さぬと言われた。
西郷は椽側に来て南天を切るとかアノ木を移すとか云う事をして居るものであるから、国の者は誰も知らぬ筈であるので反って機密を申付られてある、感心なものである。
【「明治二十六年五月九日勝伯と寺師宗徳君との談話」 史談会速記録第314輯】
「今取立てては功を成さぬ」といったのは、取立てる(=昇格させる)と周囲から注目されてしまうので秘密任務を任せにくくなる、という意味かと思います。
斉彬は西郷が地位やお金を望む人物ではなく、殿様に信頼されて重要な仕事をまかされるということが彼にとって最大のモチベーションであると分かっていたのでしょう。
斉彬の目利き力、そして育て方の上手さ、それによって西郷隆盛という日本史上に輝く偉人が誕生したと言っては言い過ぎでしょうか。
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