島津久光の率兵上京(番外)薩摩のおかげで都はミニバブル状態に?

薩摩藩錦藩邸跡の石碑(京都市下京区)

久光上京で起こったできごとの「うわさ話」

仙台藩士の玉蟲左太夫(たまむし さだゆう)が、文久2年(1862)から元治元年(1864)まで3年間の記録や風評を集めて書いた『官武通紀』という書物のなかに、久光の上京に関連するおもしろいうわさ話があります。たとえば、

薩州様御屋敷隣の豆腐屋、忍びの者に相成り、或は日雇いに入交じり、間者に入り候由のところ、召し捕らえられ、吟味に相成り候得ば、所司代より二人申付けられ忍び入り候由申し聞き候事に相唱え申し候処、其後如何相成り候哉、相分り申さず候
【『官武通紀』巻五(文久二)薩州始末一 第十風説】

錦にあった薩摩藩邸のとなりの豆腐屋と出入の日雇い人足の二人が、所司代のスパイであることが発覚して捕らえられたが、その後はどうなったか分からないという話です。

上の話につづけて、こんなうわさ話も書かれています(現代文で書き直してご紹介します、原文はこちら)。

周囲の家屋を高価で買い上げ

京都において、藩邸の四方にある町家で売り家に出ているものはすべて買い取ったが、およそ一倍半(五割増し)に価格を上げられたそうだ。
東洞院錦町下る所に日野屋徳兵衛という者があり、近頃家計が苦しくてどうにかしないと相談していたところを、気の毒に思われて、地価五十貫目の家を九十貫目にてお買い上げになった。(注:1両=4貫)
これには家内中がよろこび、親類も大助かりで、日野屋徳兵衛は商売に便利な所に家を買い、借金を返し、さらに残った金を商売の元手にした。同人より、厚きご恩を忘れないために、この先ずっと藩邸に出入させていただき何なりとお申し付け下されば、いかようにも相務めますと願い出たところ、「神妙の心得である」とほめられて永代二人扶持を下された。
また錦小路東洞院を東へ入る所、藩邸の東隣に間口二間半ばかりの桶屋があり、藩邸が建てられる前からあった粗末な家だが、これを差上げたいと自分より願い出たところ、四百八十金を下された。
この家は八十金以上の値打ちはないのに、思いもかけない幸福を得たことで桶屋をやめ、ほかに居宅を求めて安心して暮らしていこうとしたところが、薩州様より「それは心得違いだ。ほかへ移っても旧来の家業を変えてはならない。昔から続く桶屋が無くなるのは残念だから、永代五人扶持を与えて藩邸の出入を申し付ける上、新規に買い上げた屋敷の名代を勤めるように」と仰せ付けられた。
これにはびっくりして、これは夢か現実かと家内中がありがたがって涙を流し、御屋敷の方を朝夕に拝んでいるそうで、これも実話である。
【『官武通紀』巻五(文久二)薩州始末一 第十風説】

藩士の宿舎となった町家も大もうけ

薩州家にて町家をお借り受けのご相談があった者について、最初はお断り申上げた者もあったが、この頃になって了見違いであったといって旅宿を願い出ているそうだ。初めは身分の高い人の宿には一日五十疋、下級藩士の宿は一朱(25疋=16分の1両)とお定めになったら、迷惑としていた者も段々承諾した。
朝夕は湯漬け、昼時ばかりが一汁一菜で、炭・薪・油・米・茶などは薩州家より下されたため、貸し賃はまるでタダ取り同様のことだとありがたがって、大切に心を配り誠意をもって勤めたので、薩摩の方も十分に休息する事ができ、双方が和合して、家来衆も少しも無礼なことがなく慎んでいた。
借賃は毎日支払ってくれたので、貧しい者は商売を休んでお世話をし、薩州家のおかげで家族が安心して暮らせるようになった。
【『官武通紀』巻五(文久二)薩州始末一 第十風説】

薩州大明神

和泉殿(久光)は秀才だと人々が言っている。とにかく人材がいるようで、すべての処置がぬかりなく、目が行き届いているため人々は「薩州大明神」と言っている。
当時京都に薩州方は精兵千五百人ほどが滞留している。高瀬川を引き船をつかって大砲をおよそ百挺あまり持参され、そのほか鑓(やり)・鉄砲はその数を知らずとのこと。
また、国元より蝋燭(ろうそく)師を多人数つれてきて、日々沢山の蝋燭ができている。
刀鍛冶、甲冑師ならびに大工などの職人もそれぞれ連れてきているそうだ。
町家に止宿していたが、着任する兵士たちがしだいに増えてきたのでそれだけでは足りなくなり、東本願寺の境内を借り受けて、そこに小屋を建てたうえで引き移ることにしたと聞いている。
【『官武通紀』巻五(文久二)薩州始末一 第十風説】

町のうわさ話と言うことですが、「大砲百挺、鑓・鉄砲はその数を知らず」(ほんとうは大砲4門、小銃100挺)など、じっさいよりだいぶ盛った話になっています。同書によると、薩摩藩士たちが宿を借りていたのは藩邸をかこむ地域で、南北は綾小路通から姉小路通まで、東西は境町通から烏丸通までのエリアだったようです。【『官武通紀』巻五(文久二)薩州始末一 第十二探索書】

借り受けた町家には「薩州藩何之誰」と表札をだし、各藩士の家門が入った高張提灯をかかげて、役の高下によっては幕を張るなど「堂々たる有様」だったそうですから、それだけでも京都の治安維持には役立ったと思われます。

錦藩邸周辺絵地図より(「西四辻殿蔵版」著者所蔵)
(赤丸が藩邸、黒枠の範囲内に藩士が分宿)

ついでながら、同書には薩摩人と長州人を比較してこう書いています。

「当時在京の薩人、万事手厚、至って穏やかにて、内輪(うちわ)の動静外に相顕れ申さざり候由」
「長州はがさつ至極と唱え申すに御座候」
【『官武通紀』巻五(文久二)薩州始末一 第九大阪書簡抄】

久光の厳命で薩摩藩士たちが実際におとなしくしていたのだと思いますが、薩摩藩の金払いが良かったので印象が良くなっている部分もありそうです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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