斉彬「西郷隆盛は評判がわるいから採用!」

西郷隆盛肖像
(国立国会図書館デジタルコレクション)

斉彬はどうやって西郷隆盛を見いだしたのか

名君島津斉彬によって薩摩からはたくさんの偉人がうまれました、その筆頭として誰もがまず最初に名をあげるのは西郷隆盛だと思います。では、斉彬はどうやって西郷を見いだしたのか。

というのは薩摩藩は武士の比率が26%と他藩(平均6%)より圧倒的に高く、数で見ても藩士は鹿児島城下に居住する「城下士」だけで約4,300人、さらに藩内に分散して居住している「郷士」が約23,300人もいたからです(数字は中村明蔵『薩摩民衆支配の構造』より)。

このぼうだいな藩士の中からどのようにして西郷を選び出したのか、それが気になっていましたが、伝記類を読んでもあまりはっきりしません。たとえばこうです。

嘉永六年、浦賀にペリー艦隊が来航し、日本は鎖国の眠りからたたき起こされた。二度目の帰国の途中にその報に接した斉彬は、翌嘉永七年一月、阿部老中の依頼で早めに江戸に向けて出立した。その供に西郷は加えられた。西郷は三月六日に江戸に着き庭方役を拝命した。
【松尾千歳『西郷隆盛と薩摩』】
安政元年正月二十一日、(斉彬)公鹿児島を発して参勤の途に就きたるが、此時西郷南洲は中小姓に召されて公に扈従した。是れ実に南洲が公に謁するの始めで、又公の信頼を受けて重大任務に当るの機会を得たのであった。
薩藩に於て中小姓と言うは、文武に通じたる一騎当千の士で、君公の藩外に往来せらるるに当り、公駕を護衛する任務である。
【中村徳五郎『島津斉彬公』】

(元号が違っているのは、嘉永7年が11月27日に安政に改元されていることによる表記の違いで、西暦になおすとどちらも1854年2月18日です)

西郷が嘉永7年に抜擢されたことはわかりますが、その理由が書かれていません。勝田孫弥の『西郷隆盛伝』によると、西郷自身も理由が分からなかったようです。

隆盛の抜擢されし事情に関しては諸説紛々たり。隆盛自身も亦(また)詳らかに之を知らざりしが如し。故に後年隆盛人に云いて曰く、余の先公(斉彬)に抜擢せられたる所以(ゆえん)のもの、其何に原因する乎(か)、未だ詳知すること能わず。余が在藩の日には屡(しばしば)意見書を認(したた)めて、藩の政庁に呈出せしことあり、想うに或は之に依るならんか。
【勝田孫弥『西郷隆盛伝』 句読点はブログ主による】

斉彬は藩士たちから出された意見書にはすべて目を通していたようなので、西郷は自分が藩庁にたくさん出した意見書が殿様の目にとまったからではないかと推測しています。

西郷の伝記を書いた勝田は、お遊羅騒動のときに薩摩を脱出して福岡の黒田家にかくまわれていた斉彬派の誰かが国元に西郷という有能な人物がいることを、島津家から養子に入っていた藩主の黒田長溥に語り、それが斉彬に伝わっていたのではないかとも書いています。

しかし、それだけで斉彬が西郷を抜擢したのではありません。

斉彬に関する史料を集めた『鹿児島県史料 斉彬公史料』(全4巻)には興味深いことが書かれていました。

福崎七之丞という人が西郷を斉彬に推選していたのです。彼は「西郷の朋友にして、文武の芸もともにし、あるいは国事についても同論なり」だそうです。

西郷は評判がわるいから採用された

そして、この福崎が西郷を斉彬に推選した後の斉彬の行動が大変面白いのです。

斉彬公史料には次のように書かれています。(分かりやすくするため、一部を読み下し文に変え「 」をおぎなっています。原文はこちらの762頁をご覧下さい)

初め福崎が(西郷の)人となり、且つ有志者なる旨言上せしに、学問の有無或は行状等詳らかに聞こし召され、後日仰せに、
「西郷が事を外々の者より聞くに、粗暴、或は郡方にて同役との交わりも宜(よろ)しからずなどと誹謗(ひぼう)する者多し。然れども用立つ者は必ず俗人に誹謗せらるるものなり。今の世に人の誉(ほ)める者、必ず用立つ者に非(あら)ず。今の勤方にては召使う道なし、庭方勤めを願わせよ」
と懇命を下されしに、福崎仰せの旨申し聞かせしに西郷感泣したりとなむ。
【「四五七 西郷隆盛御密仕起因ノ譚」 鹿児島県史料『斉彬公史料第三巻』】

斉彬は側近の福崎が推選した西郷について、学識があるかとか日頃の行いはどうかということを聞きただした上で、自分でもさまざまな人にヒアリングしたようです。

斉彬の行動を見ていると、情報をうのみにせず必ず複数の情報源にあたって確認していますから、福崎から得られた西郷の人物像についても、それが本当かどうかを確認するため、ほかの人たちに問い合わせたのでしょう。

その結果は、「あいつは粗暴です」「郡方にいたときは仲間づきあいがわるかったです」などと西郷を誹謗する声が多くあがってきました。

普通なら評判がわるいと登用をためらうものです。

しかし斉彬は「役に立つ人間は必ず俗人から誹謗されるものだ。今のような時代においては、周囲の人がほめる人間はきっと役に立たない」といって西郷の登用を決めました。

幕末は激動の時代でした。そのようなときには、みんなに好かれる温和な人物では役に立たず、クセのある、現代風に言えば「エッジの効いた」人間でなければ成果をあげることができません。

これは情報化が急速に進展する現代にも当てはまります。まじめで行儀が良く決められたルールにしたがって動く人間よりも、ルールにとらわれない突飛な行動やぶっ飛んだ発想から生まれる創造性が求められる時代になっているからです。

そう考えると、斉彬は現代社会でもじゅうぶんに通用する名経営者だといえるでしょう。

高名な学者たちの意見を求めて自説を確認

じつは、ひと癖ある者を採用すべきと考えたのは斉彬だけではありません。

斉彬公史料の中に、斉彬に仕えた洋学者の中原猶介が語ったこういう話があります。

当時儒者にして有名なるは、塩谷甲蔵(宕陰 とういん:幕臣、昌平黌教授)、安井仲平(息軒:飫肥藩士、昌平黌教授)、藤森恭輔(弘庵:小野藩士、江戸で名声)又は藤田虎之助(東湖)、戸田忠太夫、或は兵家には小野寺等の諸氏なり。此輩は一家の学者流に非ず、経国の志厚きが故、其名尤(もっと)も高し。依て書生等をして所論或は見込聞かしめたまえり。
藤森、安井、塩谷へも当時軍国の政要を記さしめたまえり。安井が説は和漢洋折衷の兵事を定め、或は人材登用を専らに論じ、登用するにも非常の人物にあらざれば当時に用をなさず、之を抜択するには癖者と唱え、世人忌避する者の中に選ぶべしとの趣共、頗(すこぶ)る御意に叶いたりと云う。
其他塩谷、藤森等が説も大同小異なりしと、此の如く有名の人名にも汎(ひろ)く其論説を求められし故、益々御名声高く、欽慕するもの多かりしと云う。
【「四六一 藤森・盬屋・安井等ニ軍国ノ政要及ヒ海防策諮詢シ玉フ」 鹿児島県史料『斉彬公史料第三巻』】

当時有名な儒者たちに意見を求めたら、安井息軒が「今は非常の人物でなければ役に立たない。そのような人物を探し出すには、個性が強すぎて周囲の人から避けられている者の中から選ぶべきだ」と提言したのが、斉彬の考えに合っていました。

西郷隆盛はまさにそのような「癖者」だったので斉彬に選ばれたということです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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