江戸時代、庶民は牛肉をいやがった

一川芳員「異人屋敷料理之図」
国立国会図書館デジタルコレクション

先に、牛肉をめぐって水戸斉昭と井伊直弼が仲たがいした話をご紹介しましたが、斉昭のように牛肉を好む人は幕末においてもごく少数だったようです。

牛肉の食べ方

明治もなかばを過ぎてから、まだ多く残っていた幕末の古老に聞いて幕末から維新にかけての実話を集めた『幕末百話』という本の中に、庶民が牛肉を食べるときの話がありましたのでご紹介します。

今では牛肉といえば実に衛生上といい、飯の進むことといい、はたまたソノ匂いの旨さといったら、鼻がモゲそうでありますが、御一新前と来たら、七里ケッパイ、牛肉を喰うというのが、精根のつきた病人ぐらいで、薬だというから、鼻の穴へセンをかって置いて喫(た)べたもので。
喫べた以上は神様仏様へ、一周(ひとまわり)の御遠慮を申す。万一家で喰べる段になりますと、神棚仏壇へ目張(めばり)をしたものです。
そうして置いて煮た鍋はというていと、庭の中央(まんなか)へ持出して、煮え湯を懸けて二日間晒(さら)すという手数のかかったお話なんでした。
ソレも薬だからで、ナニを苦しんで晩飯のお菜(かず)なんぞに致しましょう。ヨク私共は胡摩(ごま)の油でイタめて喫べました。匂いがイヤでね。今ではビフテキだとか、シチュウだとか言いますが、牛の胡摩油煮というのは召喰(めしあが)った方は恐らく少ないでしょう。
もっとも彦根からは牛肉の味噌漬だというて貰った事が有ましたが、牛肉だと聞くと喰べる気がしませんで、恐ろしく忌(いや)がったものです。
肉を喰べると煙草も呑みません。火を瀆(けが)すというので……。
【「八四 御一新前後の肉食」 篠田鉱造『増補幕末百話』岩波文庫】

もっともこれは江戸庶民の話で、江戸時代から豚肉を食べることが一般的であった薩摩藩ではようすが違います。

京都の薩摩藩邸は牛肉屋の上得意

明治初年に京都の薩摩藩邸内に出入りしていた旧松山藩士の内藤素行が、当時のことを史談会でこのように語っています。

其頃漸(ようや)く日本人が食い始めた牛肉などというものが先づ京都に於いては多く薩州人等の口に入るのでありました。既に江戸以来東京に於きましては幕人を始めとして、今日で謂(い)えばハイカラ党は牛肉を食ったそうでございますが、京都はまだなかなか牛肉を食いませぬ。食うのは薩州屋敷の書生仲間などが主として食うのであります。
それ故に其頃専ら牛肉を扱った連中が薩州の相国寺屋敷の門前には幾つも筵(むしろ)を敷いて其上で切売りをしていました、皆是は薩州屋敷の住居人を得意として居ったものであります。
【「大正九年八月例会に於て内藤素行君の明治初年の学事に関する経歴談」史談会速記録第326輯】

内藤は明治元年(1868)の冬に漢学の修行のため京都にでて、相国寺に隣接する薩摩藩二本松藩邸内の塾に学んだことがあります。

廃藩置県後は東京にある旧松山藩士子弟寮の監督をつとめ、寮生だった正岡子規に漢詩の添削指導をしたとのことです。さらにそののちは21歳年下になる子規を俳句の師とし、鳴雪という号で俳人として有名になりました。

内藤は旧松山藩主久松家の事蹟調査員でもあったことから史談会に加わっており、この話はそこでの談話ですが、彼の経歴をみると明治2年には松山に戻っていますから、これは明治元年から2年のことだと思われます。

そのころの牛肉は堅かった

つけ加えておくと、明治のころの牛肉は今とちがって食べにくかったようで、島津家の第30代当主(最後の藩主となった忠義の長男)忠重の回想記にこのような記述があります。

明治二十年代の前半すでに肉食を始めていたのは早い方ではなかったかと思っている。
(中略)
しかし当時の鹿児島の牛肉はとても堅く、容易に食べられるものではなかった。それには理由があった。つまり肉になる牛は老牛で、使役に耐えなくなったものをこれに向けることが第一の原因で、次には殺してその日のうちに肉を届けるので、いつもまだ食べ時に達しない前の肉を食べさせられていたためである。
【島津忠重著 小平田史穂監修『復刻版 炉辺南国記』尚古集成館】

肉食の先進地である薩摩においても牛肉についてはこのような状況ですから、他地域も推して知るべしです。

水戸斉昭が「近江牛は格別」と語っていたのは、老牛ではなく若い牛を屠殺して肉をとっていたから、柔らかくおいしかったのだと思われます。

水戸斉昭は牛乳も愛飲

ついでにつけ加えると、斉昭は牛肉だけではなく牛乳も愛飲していたそうです。

水戸藩の高名な儒学者青山延寿の孫で、婦人運動家として有名な山川菊栄の著書にこのようなことが書かれています。

(水戸藩校である弘道館内の)医館には薬用の植物ばかりでなく、蜜蜂も飼ってあり、搾乳用の乳牛もその管理のもとにおかれていた。
当時すでに牛乳の栄養価は高く評価されており、烈公は特にこれを愛用して、水戸城中にいた公子たちにはこれを常用させ、家臣の病気見舞などによく与えたことも、会沢、豊田、青山延光などとの文通の中にうかがわれる。
また典医松延(まつのべ)道円の家の近くに実家のあった、(本草学者 佐藤)中陵の養孫佐藤庄三郎翁は、少年時代よく松延家の台所で白乳酪(はくにゅうらく)と呼び習わした、牛乳をとろ火で長く煮つめた白いバターのようなものを見ていた。鍋についたのを指ですくってなめてみると塩分も何もないがおいしかったという。
それは白いせっけんのようなもので、江戸藩邸まで生乳を送る方法がないので、こうして煮つめたものを送ったのだという。
嘉永三年夏、私の祖父青山延寿の日記に「この日寒暖計九十三度」とあり、他にも温度のことが出ている所をみると、攘夷の本家も牛乳や寒暖計は排斥しなかったらしい。
【山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』】

「白乳酪」は、江戸時代の初期に水戸藩2代目藩主水戸光圀(みつくに=水戸黄門)に招かれた明国の亡命志士朱舜水(しゅしゅんすい)が伝えたと言われており、インターネットで検索すると中国語でフランス産のチーズがでてきます。

「攘夷の本家」である水戸斉昭が、健康のためとはいえ、西洋人のように牛肉や牛乳を好んでいたというのは面白いですね。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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