阿部正弘も斉彬を頼った

政治の中心は阿部老中

 激動の時代と称される「幕末」は、ふつう嘉永6年(1853)の黒船来航から、明治元年(1868)までの期間をさします。

わずか16年という短い年数ですが、それまで200年以上続いた天下泰平の時代とは様変わりしました。

それを端的に示しているのが、幕府の政治をつかさどった老中の交代頻度です。

手元にある日正社の『日本史小典』を見ると、「江戸幕府の大老・老中(幕府開設前の年寄職などをふくむ)」の総数は188名で、対象期間は275年間になります。

この188名のうち、幕末に在任していた者(老中格をふくむ)は延べ50名いました。

残り138名が幕末期を除く259年間の在任者です。

幕末の老中は5人体制でしたが、それ以前も4~5人で務めていたので、いちおう幕末以前を4人体制と仮定して、一人あたりの任期を計算すると

幕末以前:259年×4名÷138名=7.5年

幕末期 :16年×5名÷50名=1.6年

となり、幕末期の老中がひんぱんに交代していたことがよくわかります。

そのような中で、幕末以前に就任してから幕末期に亡くなるまで、15年間老中を続けた人物がいました。

阿部正弘です。

歴史学者の松浦玲氏はその著書『徳川の幕末』の中で、「阿部正弘が生きているかぎり、政治は彼を中心に動いた」と述べていますが、まさに幕府の中心人物でした。

阿部正弘肖像(ウイキメディア・コモンズ)


阿部が斉彬に接近

なぜ幕府の政治が阿部を中心に動いたのか?

こういうと身も蓋もないのですが、じつは彼以外の老中が全員低レベルだったからです。

旗本でただ一人、大名ポストの若年寄にまで昇進した永井尚志(なおゆき)は、当時の老中についてこう語っています。

旧時の閣老と申すは、多くは自分の意見ある人は少なし。
皆奥右筆等の意に出るもの多し。只阿部侯(正弘:原注)のみは自ら意見を出すの人なりし。
余人(は)意見を述ぶれば黙して聞くのみ、更に可否を云うことあらざりき。 
【「島津家事蹟訪問録 故永井尚志君ノ談話」『史談会速記録 第173輯』】 

老中が参加する会議で発言するのは阿部だけで、あとの老中はみな事務方である奥右筆のいいなりで、自分の意見がなかったというのです。

これでは政治が阿部老中を中心に動いたはずです。

その阿部が頼りにしたのが、島津斉彬でした。

旧幕臣の福地源一郎がこのように書いています。(読みやすくするために、送り仮名をあらためています。原文はこちら

水野越前守(忠邦:原注)は、幕府を滅ぼすものは必ず薩摩ならんと予言せし程なれば、薩摩は幕府が近づけざる所たりしに、
阿部閣老は、この旧慣の疎遠を打ち破り、薩摩宰相(斉彬)を引き入れて幕府を輔佐せしめんと望み、おもむろにその款(よしみ)を通じたるに、
薩摩宰相もまた、日本のために、今日の長計は幕府を佐(たす)けて国家の元気を振興するに在りと信じ、
薩摩と阿部との交際は遂に親密になり(以下略)
【福地源一郎『幕府衰亡論』国文館】

天保の改革で有名な老中水野忠邦は、「薩摩は関ヶ原の戦いで徳川にやぶれたうらみを忘れないはずだから、気を許してはいけない。幕府を倒すものは薩摩にちがいない」と言って薩摩藩を敵視していました。

しかし阿部正弘は、そのような古い思考を打破し、名君斉彬を仲間に引き入れて幕府を輔佐させようと望んで斉彬に接近しました。

また斉彬の方でも、日本のためには幕府に協力して国力を高める必要があると信じていたので、二人は親密な友人となったのです。


斉彬は阿部邸に居続け

斉彬と阿部正弘の親密な交際ぶりについて、江戸藩邸の馬廻役として斉彬に仕えていた本田孫右衛門が、このように語っています。(読みやすくするために、一部漢字を平仮名に変えています)

その時分の御老中の筆頭は阿部侯で、始終阿部家へは朝御登城前に入らっしゃる。
そうすると御登城の時間になると阿部侯は其儘(そのまま)御登城になると、(斉彬)公は後に残って御居でのことが多うござりました。
又其時分の阿部侯と云うと大変利けて居られまして、世間の評判には幕府の政治の事も半分は島津公の御意見であると云う事を話して居りました。 
【本田孫右衛門「島津斉彬公逸事問答数條」『史談会速記録第269輯』】

本田は馬廻役なので斉彬の外出には必ず同行しますから、斉彬の動静はよく知っています。

斉彬は、朝阿部老中の登城前に阿部邸に行って、阿部が江戸城に登城したあとも阿部邸に残り、阿部の帰宅を待ち受けて、また続きを話し合っていたようです。

そのころの阿部は世間の評価が非常に高かったのですが、斉彬との親密な関係も知られていたので、阿部が行なう幕府の政治も半分は斉彬の意見だろうと噂されていた、と本田が語っています。

福地源一郎は先ほどの文章のあとに、

「もし薩摩宰相と阿部閣老とをして、その寿(寿命)を永からしめば、水戸をも乖離せしめず、安政五年の変もなかりしならんに、薩・阿部両侯ともに世を早くせられたる(早逝した)は幕府衰亡の運なりと云うべきか。」

と綴っています。

安政五年の変というのは、安政5年6月に大老井伊直弼が孝明天皇の勅許をうけずに日米修好通商条約を結んだことに端を発した一連の弾圧事件です。

福地は阿部と斉彬の両人が長生きしていればこのような事件は起こらなかったと書いていますが、たしかに二人が存命であったらその後の日本の歴史が大きく異なっていたことは間違いないでしょう。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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