大名にもコーチがいた

教えるのは誰?

 先週の衆院選では高市自民党が歴史的大勝利をおさめました。

今回初当選した議員が60人以上いるそうですが、今後「高市チルドレン」と呼ばれるのでしょう。

そこで少し気になるのが、この新人たちの指導をどうするのかということです。

以前であれば、ほとんどの新人議員は党内のいずれかの派閥に所属して、その派閥内で議員としての教育を受けていました。

しかし、岸田首相のときに麻生派以外の派閥はすべて解散して(させられて?)います。

となると、自民党はどうやって新人議員の教育を行なうのでしょうか。

企業であれば、職場の先輩が教えたり外部の研修会社に手伝ってもらったりしますが、石破首相のときに大敗しているから先輩は少ないし、国会議員のようなニッチな仕事を教える研修会社はないでしょう。

部外者ながら気になります。

ということで、今回のテーマは「新人大名の教育システム」をとりあげました。


新人大名には介添役がついた

これまでになんども書いていますが、江戸時代のルールは「前例踏襲」です。

何事においても、古くからのしきたりを知っていないと務まりませんでした。

そのため、前例やしきたりを教えるコーチ役の先輩が必要になります。

大名の身近な先輩といえば父親ですが、大名家によっては息子がおらず、藩主死亡時に急きょ分家から養子を迎えるというケースも結構ありました。

そういう場合は、藩主になるという準備ができていません。

であれば江戸城内のしきたりを誰かから学ばねばなりません。

これは家老や側用人ではできないのです。

というのも、江戸城の本丸御殿に入ることができるのは大名本人(または代理となる世子)にかぎられていたからです。

大名が登城するときは大人数の行列で藩邸を出ますが、江戸城の敷地に入ると供(とも)の数は極端に制限されます。

家格によって違いがありますが、島津家のような国持の大大名でも下馬所からは駕籠かきをふくめて13人、下乗橋からはわずかに5人の供がつくだけです。

さらに、その先は‥‥。


玄関を入ってからは大名一人の行動となる。
自分の屋敷にもどれば、数百人以上の家臣・奉公人にかしずかれる身分を思えば、初めて江戸城へ登城する大名にとってはさぞ心細く、「将軍の御威光」を思い知らされたことであろう。
【深井雅海『図解 江戸城をよむ』原書房】


このため、藩主となって初めて登城する時には、親族の大名2人に付添いとして同道してもらったそうです。【「浅野老侯の話」三田村鳶魚『武家の生活』中公文庫】


揚州周延「千代田の御表 正月元日諸侯登城御玄関前之図」(部分)
(国立国会図書館デジタルコレクション)


そうせい侯は斉彬が指導

新人大名が知っておくべきことは江戸城内のしきたりだけではありません。

同僚との交際や大名としての心得についても教わらねばなりません。

そこで、当時大名が家督を継ぐときは数名の先輩藩主に介添役(御師匠役)をたのむという慣例がありました。

以前「雑談無用」のところでも取り上げましたが、島津斉彬が介添役を頼まれたのが、藩主就任後20日で急死した兄の後を継いで急きょ長州藩主となった毛利敬親(たかちか)でした。

毛利敬親(京都大学付属図書館蔵)


旧長州藩士で敬親の側近としてつかえていた竹中兼和は、旧薩摩藩士の寺師宗徳に、敬親の介添役を斉彬に依頼したと語っています。 (読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)


旧時大名家督となるときは、互いに介添役を頼むの慣例あり。 
すなわち先代敬親の介添役、すなわち世に御師匠役と申しました、この役をお頼み申上げしは御先代斉彬公と細川越中守殿、誰某お三方なりし。 
特に斉彬公は御年齢も長(た)けさせたれば、万事につき教示をかたじけのうせられぬ。
【「島津家事蹟訪問録 故竹中兼和君ノ談話」『史談会速記録 第175輯』】 


敬親が家督を継いだ天保7年(1836)当時、斉彬は当時まだ藩主になっていませんが、父斉興の代理としてすでに大広間席でも一目置かれる存在でしたから、介添役をたのまれたのでしょう。 

敬親の義祖母となる三津姫は斉彬の母弥姫(いよひめ)の姉(鳥取藩主池田治道の長女と四女)ですから、たのみやすかったのかも知れません。

敬親は10歳年長の斉彬から何事によらず教示をうけており、斉彬も毛利家にたびたび足を運んで、藩政についての相談にのっていたとのことです。

その毛利敬親ですが、本名よりも「そうせい侯」という名の方が知られています。


有名な話ですが、幕末の長州のお殿さんで、毛利敬親は「そうせい侯」という綽名(あだな)があったわけです。
「いかがいたしましょうか」と家臣に問われると「よきに計らえ」と答える。
「では、こういたします」と言われると「そうせい」と。
だから「そうせい侯」。
しかし、他の藩でも殿様は大体「そうせい侯」だったのです。
【渡辺京二『私の幕末明治維新史』新潮選書】


「そうせい侯」というありがたくないあだ名をつけられて家臣のあやつり人形のように見られていた敬親ですが、他藩にさきがけた海外留学生(長州ファイブ)派遣や、高杉晋作の抜擢などじつは名君だったという説もあります。

江戸時代をつうじて最高の名君とされる斉彬から個人指導をうけていたのですから、敬親が名君に育ったというのは理解できなくもありません。

幕末の長州藩は尊皇攘夷をとなえる過激派の巣窟のようになっていましたので、連中の刃が藩主に向かないよう、無能なふりをしてたくみに身をかわしていたとも考えられます。

元治元年(1864)の禁門の変で薩摩・会津連合軍に敗れた長州藩は、「薩賊会奸」と呼んで薩摩藩を憎んでいましたが、斉彬が存命であれば敬親と連携して、はじめから良好な関係のままで明治維新をなしていたかも知れません。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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