明治の軽犯罪法

不平等条約が原因

 「タトゥー?いや入れ墨です」でとりあげた違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)は、来日した外国人に日本は文明国家であるということを示すために制定されました。

目的は領事裁判権の解消です。

明治政府は旧徳川幕府が西洋諸国と結んだ条約をそのまま承継しましたが、その中に領事裁判権(外国人が日本で犯罪を犯したときは、日本の法律で裁かれず、その外国人の本国の領事が本国法で裁く)という条項がありました。

この条項があったために不良外国人は日本で犯罪を犯しても軽微な罰ですまされることが多く、日本人の不満のタネになっていたのです。

では、なぜこのようなこのような不平等な条項が存在したのか。

19世紀に入って西洋列強はアジアに進出し、交易を行なうために条約を締結しましたが、当時のアジア諸国の法体系は西洋とは大きく異なっていました。

西洋の目から見れば、「前近代的で未整備」だったのです。

生麦事件を例にあげましょう。

島津久光の行列に乗馬のまま入ってきた者を切り捨てるのは日本では合法で、犯罪にあたりません。

しかも、英国人とはいえ身分は商人、つまり町人です。

日本では町人は乗馬を禁じられていたので、町人が馬に乗ったまま武士とすれちがうようなことがあれば、ただちに無礼討ちにされても文句は言えませんでした。

ましてや大名行列に乗入れるなど言語道断、問答無用で無礼討ちにしなければ護衛の方が責任を問われて切腹させられます。

しかしこれは西洋諸国から見ればとんでもないことです。

それで、お互いに自国民は自国の法律でさばこうとしたのが領事裁判権でした。

しかし他国の法を日本国内で適用されるのは日本人には納得できません。

くわえて領事は外交官であって、裁判官ではありません。

法律や判例の知識も不十分で、往々にして自国民を身びいきする判決を下しました。

外国人優遇に対する日本人の不満は高まるばかりです。

そこで明治新政府は国内の法律を先進国並みにして、不平等な領事裁判権を解消しようとしました。

その取り組みのひとつが違式詿違条例だったのです。


文明人らしくせよ

明治10年に京都で出版された京都府違式詿違条例の注釈書『違式詿違図解』には、条例制定の趣旨としてこのように書かれています。(原文はこちら

夫れ違式詿違の条例を立つるは文明政体の一端にして、国法を遵守し、他人の自由を妨害せず、且つ自ら自由を保護するの美事なり。
或は愚夫愚婦の輩、暴行を認めて自由とし、義務を指して自由を損ずとし、此の条例を見て人を苦しむといい、贖金を聞いて民を虐ぐというが如きこと有ることなかれ。
今や文明日に進み、万民此の条例を受持するに至るは、実に欽慶すべきことならずや。
【木村信章著『違式詿違図解』鴻宝堂】

一言でいうと、「この条例があるのは文明国のしるし」だといっています。

しかしその内容は、江戸時代から当たり前のように行なってきた庶民の習慣を禁止するものでした。

そのひとつが「裸で往来に出るな」です。

江戸時代なら町人の男は風呂帰りにはほとんど裸で家に帰ったようで、三田村鳶魚はこのように書いています。

昔民間の者は、風呂屋から浴衣を引っ掛けて、勿論帯も紐もない、その姿で自宅へ帰りました。
湯屋帰りには、自宅まで怪しいさまで、往来を闊歩して憚(はばか)らなかった。
憚るどころか、それを当り前としておりました。
【「浅野老公のお話」三田村鳶魚著 朝倉治彦編『鳶魚江戸文庫11 武家の生活』 中公新書】

日本人にとっては当り前の姿だったのですが、アメリカ人の目にはそうは見えなかったようです。

ペリー艦隊の通訳として日本に来た宣教師のウイリアムズは、下田で目にした日本人の様子についてこのように書いています。

私が見聞した異教徒諸国の中では、この国が一番淫(みだ)らかと思われた。
体験したところから判断すると、慎みを知らないといっても過言ではない。
婦人たちは胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。
男は男で、前をほんの半端なぼろ(ふんどし:原注)で隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。
裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体なぞはおかまいなしに、等しく混浴の銭湯へ通っている。
【サミュエル・ウェルズ・ウイリアムズ著 洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』講談社学術文庫】

まさに鳶魚が書いていた江戸の様子と同じです。

このような風体を改めさせようと、京都府違式詿違条例の第17条には「市街或は街道等にて袒裼(たんせき)裸体醜体を露(あらわ)す者」は罰するとしました。

その注には「街道は市中も同様と心得べし」とし、用語の説明として「袒裼」には「ハダヌギ」、「裸体」には「アカハダカ」とふりがなをつけた上で、「醜体は見苦しき姿をいう、露とはかくすべき所を人に見する事」と解説しています。

木村信章著『違式詿違図解』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

また混浴の銭湯についても、第16条で「男女入込の湯を渡世する者」として、営業を禁止しています。


庶民の楽しみも規制

西洋人の目(現代日本人もそうです)からみれば問題があるが、当時の庶民は平気で楽しんでいたものも禁止されました。

見世物です。

京都府違式詿違条例の26条(下の絵では25条)には、「男女相撲ならびに蛇遣いその他醜体を見世物に出す者」というのがあり、注釈にこう書いています。

すべて見苦しきことは見世物とすまじきなり、知識を増すなどのことにもあるべからず、片輪なる所を人に見するは恥しらずという者なり、見るも情けしらずなり、俗に罪滅ぼし、見るも後生などいうは当たらぬことなり。
【前掲 木村信章著『違式詿違図解』】

「見苦しいものを見世物にするな、知識を増やすことにもならない、不具を見せるのは恥知らずだし、見る方は情け知らずだ、俗に罪滅ぼしのために見せるとか見てやれば極楽に行けるというのは当たっていない」

と、手きびしく非難しています。

昇斎一景『画解五十余箇条』(国立国会図書館デジタルコレクション)


この「男女相撲」と「蛇遣い」とはどんなものだったのか、気になるので調べてみました。

男女相撲というのは、文字通り男女の相撲ですが男性の方は座頭つまり盲人です。

金田英子先生(日本体育大学)の『興行としての女相撲に関する研究』によると、江戸中期にはじまって一度中断したが文政9年(1826)に江戸の両国広小路で興行が行なわれたとあります。

現在行なわれている大相撲とは全くちがう、ショー的なイベントのようです。

蛇遣いは、東京都のホームページ

朝倉夢声『見世物研究』によれば、「蛇遣いの多くは女子で、笊(ざる)に大小の蛇十数疋を入れ、それを掴出(つかみだ)しては、首や両手に巻付かせて見せたのである」と記されています。

とあります。

まさに上の昇斎一景の絵に描かれた看板のような見世物だったのでしょう。

明治政府が外国人に見られたくないと考えたのも無理はないのですが、こわいもの見たさでちょっと覗いてみたかったなあというのが正直なところです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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