タトゥー?いや入れ墨です
SNS時代は情報がフローからストックに変わったという指摘があります。
インターネットで流れた情報を完全に消すことは不可能で、どこかに残って本人の知らないところで拡散されます。
一度流れたら消せないことから、入れ墨になぞらえて、デジタルタトゥーと呼ばれています。
その入れ墨ですが、日本では縄文時代から入れ墨の風習があったといわれています。
それが爆発的に人気を呼んだのは江戸時代でした。
浮世絵師の歌川国芳が発表した水滸伝のシリーズが大ヒットとなり、描かれた人物の肌に彫られた入れ墨が評判をよびました。
これに注目したのが、鳶や飛脚など肌を露出して仕事をする「粋なお兄さんたち」です。
彼らはさっそく国芳の浮世絵をまねて、全身にド派手な入れ墨を彫り込むようになりました。
国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個 浪子燕青』(東京国立博物館蔵)
入れ墨刑
ところで、江戸時代にはちがう種類の入れ墨もありました。
刑罰としての入れ墨です。
罪を犯した印として身体に入れ墨を彫るのは日本でも古代からあったようで、井上泰宏の『入墨の犯罪学的研究 (科学搜査研究所叢書 )』によれば、5世紀前半の履中(りちゅう)天皇のときに墨刑を行なったことが古事記に書かれているそうです。
古代において入れ墨刑は「ヒタヒキザム(額刻む)」といい、重刑のひとつでした。
しかし、大化の改新※で律令は唐の制度を基本とすることにしたため、唐の刑罰にない入れ墨刑は廃止されます。
※現在の教科書では「大化の改新」は孝徳天皇時代(645~654)の諸改革をさし、645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒した事件は「乙巳(いつし)の変」とよばれています。
それが復活したのは江戸時代中期、8代将軍吉宗のときです。
江戸時代のはじめは戦国の気風が残っており、罪人の耳や鼻をそぐという刑罰がありましたが、吉宗は享保5年(1720)に「耳鼻をそぎ候科(とが)の者にて一等軽き品の者は、向後腕に廻し幅三分(9mm)ほど二筋入墨致すべく申し付け候」とのお触れをだしました。
以後は耳や鼻をそぐ刑罰はなくなり、入れ墨刑にかわります。
入れ墨のしかたは『徳川禁令考』によれば、「腕へ間六七分(18~21mm)あけ、幅三分(9mm)程に墨二筋引廻し、針を拾本程寄せ巻き候て、墨の上を突き、直ちにまた墨を入れ敲(たた)き候上入牢申し付け、乾き候て村役人へ引き渡し候事」とあります。
入れ墨がちゃんと定着したのを確認してから釈放したようですね。
『司法制度沿革図譜』より「入れ墨をされる罪人」(国立国会図書館デジタルコレクション)
再犯は筋がふえる
江戸町奉行所の場合、入れ墨は左腕肘のすぐ下に二筋彫られます。
入れ墨は前科があるということをしめすものですから、入れ墨者はまっとうな店では使ってもらえません。
そこで、入れ墨の上に熱い灸をすえてヤケドで隠した者がいました。
このため、もし入れ墨を焼き消したり抜きとったりした場合は、再び元のように入れ墨をして江戸払い(追放)の刑に処すことになりました。
また入れ墨のあるものが再び罪を犯した場合、下の図の左のように、すでにある筋の上にさらに一筋ずつ入れ墨が加えられます。
そうして、あたえられる罰も重くなります。
関係ない話ですが、大ヒット中のアニメ『鬼滅の刃 無限城編』にでてくる猗窩座(あかざ)は合計6本の筋を彫られていましたから前科5犯なので、当然江戸払いですね。
入れ墨の仕方『徳川禁令考 後聚第6帙』(国立国会図書館デジタルコレクション)
各地の入れ墨
刑罰としての入れ墨ですが、その形状は地域によって異なっており、どこで裁かれたのかが分かるようになっています。
上は幕府直轄地で、右から江戸・駿府・京都の各町奉行所、下は右から幕府直轄の伏見奉行所と譜代筆頭の彦根藩、御三家の紀州藩の入れ墨刑。
京都と伏見は隣接していますが、管轄の奉行所がちがうので入れ墨の位置や形状が異なります。
紀州藩は筋ではなく「悪」の文字を彫り込んでいます、わかりやすいですね。
いずれも『徳川禁令考 後聚第6帙』より(国立国会図書館デジタルコレクション)
顔面の入れ墨刑
入れ墨刑は腕だけでなく顔に彫る所もありました。
これは幕府領ではなく、各藩が独自に行なっていたものです。
『徳川禁令考 後聚第6帙』より(国立国会図書館デジタルコレクション)
高野山は寺領なので、僧侶に対する裁判権を持っていたのでしょう。
入れ墨が仏像の額にある白毫(びゃくごう:白い丸まった毛で、三千世界を照らす光を発するとされる)の位置にありますが、効能は大ちがいです。
左上の広島藩は初犯の入れ墨で、罪がふえると下の図のように入れ墨を追加されて、3回目には「犬」になってしまいます。
『徳川禁令考 後聚第6帙』(国立国会図書館デジタルコレクション)の図を加工
なお、江戸時代に「入墨」と書けば刑罰の方で、「いれずみ」という呼称も刑罰と間違われることから、粋なお兄さんが彫るものは、江戸では「ほりもの」関西では「入ぼくろ」と言って区別したそうです。
明治3年(1870)9月25日、墨刑廃止の法令が公布されて入れ墨刑はなくなりました。
明治時代は入墨禁止だった
明治5年(1872)5月11日に「違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)」という軽微な犯罪を取り締まる条例が公布され、その11条に「身体に刺繍(ほりもの)をなせし者」とあって入れ墨が違法になりました。
昇斎一景画『画解五十余箇条』(国立国会図書館デジタルコレクション)
明治9年(1876)の改定では新たに「往来での裸体又は肌脱ぎ行為」「往来での放尿行為等」が加えられていますから、外国人の目を意識したことは間違いないでしょう。
明治政府としては文明国家であることを示そうとしたのでしょうが、江戸時代からあたりまえのようにしてきた庶民の生活習慣を大きく制約する内容だったので、反発も大きかったそうです。
入れ墨については、その後明治41年9月29日に公布された「警察犯処罰令」では「自己又は他人の身体に刺文したる者」となって、彫り師も処罰されるようになりました。
それでも入れ墨を彫る者はけっこういたようで、前掲の『入墨の犯罪学的研究 』によれば、鳶職や土工夫、炭鉱夫などの職に入れ墨が多いと書かれています。
入れ墨が違法でなくなったのは昭和23年(1948)5月2日に「警察犯処罰令」が失効してからです。
0コメント