藩校造士館の教育も斉彬が変えた
前々回まで3回にわたって薩摩特有の教育である郷中教育をとりあげてきました。
しかし、薩摩の教育は郷中教育だけではありません、メインとなるのは藩校「造士館」です。
じつは斉彬はこの造士館も大改革しています。
藩校は官僚養成が目的
江戸時代中期(18世紀後半)以降、各藩は藩士の教育機関となる藩校を相次いでつくりはじめます。
その理由は藩財政の悪化でした。
江戸時代の大きな特徴は、貨幣経済が急速に発達したことです。
それまでは中国から輸入した貨幣を使っていましたが、徳川家康は新たな金貨・銀貨・銭を発行し、この統一通貨が日本中で通用するようになりました。
その結果として商業が急速に発達しますが、一方で年貢収入にたよっている各藩は財政が悪化していきます。
これを立て直すために優秀な官僚が必要となり、従来の門閥オンリーでは人材が得られないことから、教育機関が相次いでつくられたのです。
そこで求められる官僚像は、藩のさまざまな問題を処理する能力を有し、危機を克服する強靱な精神力と強い責任感を兼ね備えた人物でした。
藩校はそのような人材を育てる場所として期待されたのです。
造士館は政治性を排除
さきに述べたように、各藩で藩校がつくられたのは江戸中期(18世紀後半)以降で、薩摩藩の藩校造士館ができたのも18世紀後半の安永2年(1773年)、8代藩主(島津家25代当主)重豪のときです。
入学資格は城下士の嫡男ですが、「軽輩でも聴講を許可」とされており、下級武士も学べました。
しかし、実際には上級武士がほとんどだったようです。
造士館で教えた学問は朱子学で、幕府のお抱え儒者である林家(りんけ:林羅山の子孫)の解釈しか認めない硬直的なものでした。
さらに造士館の学規(造士館規則)には「古道を論じ古人を議して当時(=現在)の事を是非すべからず」と定められていました。
学規(抜粋) 安永2年(1773)制定
一、 講書は四書五経小学近思録等の書を用ひ 註解は程朱の説を主とし 妄(みだ)りに異説を雑(まじ)へ論ずべからず 読書は経伝より歴史百家の書に至るべし 尤も不正の書を読むべからず。
一、 専ら礼儀を正しくして学業を勤め 妄りに戯言戯動すべからず。
一、 疑は互に問難すべし 専らその言を譲り我意を棄てゝ人に従ふべし。
一、 古道を論じ古人を議して当時の事を是非すべからず 。
つまり昔の事を学ぶだけで、現在の政治について議論してはいけないという規則だったのですが、この規則が造士館教育をダメにします。
朱子学というのは大義名分に基づいて各階層の帰属関係をきびしく規定することから支配者層にとって都合がよい学問ですが、「治教一致」を骨子とする、政治実践とも結びつく実学でもありました。
その「治教一致」の朱子学から「治」つまり政治性を排除すれば、残った「教」は四書五経に書かれた語句の意味を検討する訓詁学か、文章の巧拙を競うことしかありません。
斉彬が藩主に就任したころの造士館は、まさにそのような教育になっていたのです。
『三国名勝図絵』より「造士館」(国立国会図書館デジタルコレクション)
斉彬、「造士館の役割は人づくり」
斉彬は安政元年(1854)1月にだした訓令でこう諭しています。(読みやすくするため書き下し文にして、句読点をおぎなっています。原文はこちらの73頁)
学問の儀、文章訓話の末になづみ、倫理実用の道理に昏(くら)く候ては、不学無識の者に同じく、無益の事に候。
元来学問の本意は、義理を明にして、心術を正し、己を治め、人を治る器量を養ひ、君父に対して忠孝を尽し、全体を汚さざる義、第一の要務と存じ候間、能く能く論じ申すべく候。
【「両番頭ヘ学問ノ要旨其他訓令」『鹿児島県史料 斉彬公史料第二巻』】
「文章訓話の末になづみ」というのは、文章や言葉のささいな部分ばかり追っているということです。
そのため「倫理実用の道理にくらく」なって学問の本来的な目的を見失ってしまい、「不学無識の者」と同じことで、世の中の役に立たないと指摘しています。
引用した斉彬公史料には、注として「造士館の学風近代大に衰へ、記誦詩章にのみ務るの弊あり、故に此令あり」と書かれています。
造士館の教育が人物養成ではなく文章指導になっていたから、このような訓令を出したというのです。
たびたび注意したが改まらず
斉彬は、日本も開国したからには世界に通用する人物を育成しなければならない、と考えていました。
しかし造士館の教員たちは変化をきらい、象牙の塔にひきこもっています。
この状態を改善するため、斉彬は安政4年(1857)6月に、造士館とは別の、日本の歴史・制度や西洋の進んだ科学を教える施設の開設を検討するよう命じました。
それが「国学館」と「洋学所」です。
斉彬は藩の国学者の関勇助・八田知紀・後醍院真柱、洋学者の石河確太郎らに開設の趣旨をこう話しています(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています。原文はこちらの807頁)
御沙汰の趣に、
造士館の学風は程朱の学のみを講習し、我生国の史籍は度外に措き、人に依りては却て我国を賤め唐土を尊重し、何も彼も唐風にせんと唱ふるものありと聞及べり、はなはだ心得違いなり。
(中略)
漢学者の癖、何も彼も唐土と同様にせんと主張し、我国聖帝賢相の言行等には疎きものもあり。
たまたま知れるものありといえども、ただ物知りともいうべき行為にして用をなさず。
(中略)
よって教えの道は夫(それ:日本についての知識)を目的とし、国学館を設け、生国の道をわきまえ、しこうして漢洋の学を以て補い、本末先後明弁するの学規を設けんと思えり。
【「四八二 国学館並洋学所開設関・八田・後醍院・石川等へ取調御内命」『鹿児島県史料 斉彬公史料第二巻』】
斉彬は、漢学者が朱子学だけを教えて日本を無視していることに憤慨し、我が国の歴史・制度を教える国学館を設け、不足するところを漢学と洋学でおぎなう形に変えようと考えたのです。
しかしこの指示を出した翌年に斉彬が急死したため、国学館・洋学所の開設はかないませんでした。
斉彬没後の元治元年(1864)に久光が開設した開成所が、薩摩藩の本格的な洋学教習所になります。
最後は家老・大目付に監督させる
同じ年の10月、斉彬は家老島津久徴(ひさなが)・新納久仰(にいろ ひさのり)を呼び出して親書(すこし長いですが、原文はこちらの913頁以下)を渡し、造士館の学風矯正を指示します。
この親書について、島津家の博物館「尚古集成館」の元館長芳即正(かんばし のりまさ:故人)氏は、こう述べています。
親書の中で斉彬は、安政元年の訓令とおなじく学問の本義を説き、とくに日本の古典はもちろん律令格式・六国史などもわきまえ、和漢の経史にわたり治乱興亡の本源を研究し、国家有用の道にかなう生き学問をし、真に造士の道をたてよと示す。
役職者や師匠格の学問の必要、それも観念でなく実践の必要を強調している。
しかも孫子の「彼を知り己を知るもの百戦殆うからず」の語のとおり、彼の長をとり我の短をおぎなうことが急務だと、和漢の書籍だけでなく、西洋和解(和訳:原注)の諸書をも熟読し外国の事情にも通じ、国際情勢の動きに対応する必要を説いている。
【芳即正『島津斉彬』吉川弘文館人物叢書】
斉彬は、両家老にこの親書を造士館はもちろん、国中に申し渡すように命じました。
そして、家老島津久徴と大目付喜入久高(きいれ ひさたか)を造士館の監督責任者に任命したのです。
この両名が造士館の教員たちに目を光らせた結果、造士館では毎朝、授業の前に斉彬の親書を読み上げることになり、一般家庭でもこれを読み上げました。
こうして斉彬の考えが国中に浸透し、造士館の教員たちもそれまでの態度をあらため、文章指導ではなく全人教育を心がけるようになりました。
その結果、造士館の教育が変わり、実社会に役立つ人材を生み出せるようになったのです。
何度言っても改めない教員たちには文字通りのお目付役を貼り付けて態度をあらためさせる、これも斉彬の経営手法です。
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