金銭は不浄のもの

 前回の話の中で、武士は子供のころから「金銭は卑しむべきものである」と教わってきたと書きました。

それがいつの時代から言われはじめたのかはハッキリしませんが、戦国時代の末期にはそのような考えがあったようです。


銭は下賤のあつかうもの

戦国時代、会津120万石を領した上杉景勝の家老直江兼続は、豊臣秀吉より30万石を与えられていました。

2009年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公で、妻夫木聡が演じていましたから記憶にある方も多いと思います。

関ヶ原では石田方につき、敗戦後は家康によって上杉の領地は30万石に減らされます

しかし兼続の態度には変化がなく、江戸城内で老中に会ってもへりくだるようなふるまいはしませんでした。

そんな兼続ですが、まだ秀吉が存命のころ、伊達政宗とのあいだで金銭の扱い方についてこのようなやりとりがありました。

舞台は京都の聚楽第です。

関ヶ原以後江戸駿府御城にて、直江山城守は天下の御老中へ属しても対揚の挨拶にて中々頭を下げ手を束(つか)ねる事なし。
大男にて弁舌能く見事なる事也。
其の昔聚楽御城にて政宗懐より初て金銭出来たるを取り出し、諸大名に見せられ、皆々も重宝なる事とて手々に取りて見られ候時、政宗金銭を持ち直江にも見せられけるに、山城守は扇を二間ひろげ是にうけて見る。
政宗は我随身の物ゆえうやまいて手に取らず扇にてうくると心得、「山城苦しからず手に取て見よ」と有りければ、直江申し候は、
「我等は景勝先手を申付け候軍兵を指つかい采配取り候手に斯様のむさき物取り候ものにてこれ無く候、銭は下賤(げせん)の持ちあつかい候ものなり」
とて、扇より銭を政宗前へ投げ返しければ、政宗赤面せられけるとなり。(会津陣物語)
【「直江兼続と伊達政宗」高柳光壽・白井喬二共編【日本逸話大辞典第五巻】人物往来社】

伊達政宗が、はじめてつくった金銭(貨幣)をふところから取り出し、諸大名に見せびらかしました。

大名たちも金銭を手にとって「これは重宝なことだ」と感心していたので、政宗はその金銭を兼続(山城守)にも見せようとしたところ、兼続はもっていた扇をひろげて受け取りました。

政宗は兼続が自分をうやまっているから、直接手にとるのは失礼だと考えて扇で受けたと思い、「苦しゅうないから、手にとって見よ」と言ったところ、兼続は

「自分は主人景勝の先陣を申付けられた兵士たちをこの指を使って采配を取ります。

この手はこんな汚らしいものを受け取る手ではありません。

金銭は下賤の者が取り扱うものです」

と言って、扇から銭を政宗の前に投げ返したので、政宗が自分の行動を恥じて赤面したということです。

この話によると、戦国末期において金銭は商人など「下賤の者」があつかうもので、武士が触れるものではないという考えが広まっていたようです。

じつは以前に同じようなパターンで結論が異なる話を読んだおぼえがあります。

主人公は同じく直江兼続ですが、金銭を渡すのは徳川家康でした。

家康が手に入れたスペイン金貨を大名たちに見せたという流れで、やはり兼続が扇で受けます。

家康がその理由をたずねると、兼続は「このように汚いものを手であつかうことはしません」と答えます。

すると家康は、「ほお左様か、ではお前は用を足した後、なにを使って拭くのか?」とやり込めたというような話だったと記憶します。

原典を忘れてしまったので、正確なやりとりは分からないのですが、無骨な兼続と柔軟な家康の対比が面白かったのでよくおぼえています。

いずれにせよ、戦国末期か遅くとも江戸時代のはじめには、金銭は武士が触れるものではないという風潮があったようです。


郷中教育でもお金の計算はタブー

戦国武士の気風を大切にする郷中教育においても、金勘定はタブーでした。

郷中教育研究のさきがけである松本彦三郎の名著『郷中教育の研究』には、郷中教育における金銭のあつかいについて、東郷平八郎の少年時代のエピソードが紹介されています。

利益を目的とする商事(あきないごと)を談ずるものは擯斥(ひんせき:のけものにする)された。
金銭の出納や計算のこと、買物をするのにその価をかれこれ言うことなどは、不躾(ぶしつけ)として大いに嫌われた。
これについて東郷仲五郎少年(後の平八郎:原注)が十歳の時の逸話がある。
ある時彼は、「一枚二枚‥‥」とひとりで呟いていた。
すると長兄の四郎兵衛がそれを聴き咎めて痛くこれを叱った。
鹿児島では当時、金銭を数える時にも一枚二枚と唱え、郷中の者は、これを口にすることをひどく卑しんだからである。
しかし仲五郎はこの時紙を数えていたのである。
そこで兄上を見上げ、「紙は何というて数えるか」と答えた所、兄は返す辞(ことば)もなかったという。
仲五郎少年のことは別として、郷中の家庭教育においては、金銭をかくのごとく極端に賤しめた。
【松本彦三郎『薩摩精神の真髄 郷中教育の研究』尚古集成館復刻】

東郷平八郎少年が紙の枚数をかぞえていたら、金銭をかぞえていると勘違いした兄が「卑しいふるまいをするな」と叱りつけたという話です。

右が23歳の東郷平八郎、左の男性は親友伊地知弘一(後の海軍大佐、江田島兵学校の提唱者)

(『東郷平八郎全集第3巻』より 国立国会図書館デジタルコレクション)


武士は金銭に触れず

買物のときに値段の話をするなというのは現代では考えられませんが、江戸時代においてはそれが武士のたしなみでした。

武士の収入は家禄、つまり先祖代々うけついできた「年金」です。

自分で汗水たらしてかせいだものではなく、何もせずとも入ってくる収入なので、お金のありがたみという考えはなかったのでしょう。

旧福井藩士の由利公正は、明治31年の史談会でこう語っています。(読みやすくするために現代仮名づかいに変えて、句読点をおぎなっています)

日本の士族以上の人が、金というものは無ければならぬということを知ったのは、明治二、三年の頃が始めでありました。
それまでというものは、そんなかんがえは少しも持って居らなかったです。
【「籠手田安定君経歴附十三節」『史談会速記録 第82輯』】


士族の金銭意識については、前回とりあげた水戸藩出身の山川菊栄もこんなことを書いています。

延寿(菊江の祖父青山延寿:あおやま のぶとし、藩校弘道館の教授頭取代理をつとめた儒者)の甥の一人など、
慶応年間に別家召出しとなりお庭番という役にもつき、弘道館の教師をつとめ、明治時代には県立中学の教師もした人物でも、
「あの貧乏の中で一生お金の勘定を知らずにすませたんですからねえ」
と一九七三年、八六歳でなくなったその娘が、感に堪えて話してきかせたような極端な例もあった。
【山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』岩波書店】

慶応年間(1865~1868)生まれなら、士族が金の必要性を認識した明治2、3年(1869~1870)ころはまだ幼児です。

そんな人でも、亡くなるまで金勘定つまり家計管理をしなかったというのです。

では、金勘定は誰がしていたのでしょうか。


家計管理は妻の責務

長岡藩の家老の娘で、アメリカ在住の日本人貿易商と結婚して明治31年(1898)に渡米した杉本鉞子(すぎもと えつこ)は、その著書 『武士の娘』のなかで、アメリカ人の家庭では夫が財布のひもをにぎっていることにおどろいて、このように書いています。(読みやすくするために、現代仮名づかいに変えています)

このアメリカで、威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である夫人が、夫に金銭をねだったり、恥しい立場(夫の財布からこっそり抜きとる)にまで身を置くということは、信じられそうもないことであります。
私がこちらへ参ります頃は、日本はまだ大方、古い習慣に従って、女は一度嫁しますと、夫には勿論、家族全体の幸福に責任を持つように教育されて居りました。
夫は家族の頭であり、妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司っていました。
家の諸がかりや、食物、子供の衣服、教育費を賄い、又、社交や、慈善事業のための支出をも受持ち、自分の衣類は、夫の地位に適わせるよう心がけて居りました。
それらのための収入は、云うまでもなく、夫の働きにより、妻は銀行家になるわけです。
ですから、夫は自分でお金の要る時には、妻からもらい、夫に、地位相応の支給が出来るのを、妻は誇としていました。
(中略)
以上は、どの階級にも通ずることでありますが、上流社会とか大実業家では、家に会計係を置きます。
この人も、やはり主婦の命令次第で、入費については主婦が第一の権限を持っていました。
会計係の唯一つの権能は、いろいろ弁解をしたあとで、「奥様、少々ひき出し方が多いように存じますが」と云うだけでありました。
【杉本鉞子著 大岩美代訳 『武士の娘』 昭和18年 長崎書店】

杉本は、「家内(いえうち)のことは女の手にあった」と書いています。

江戸時代は男尊女卑の暗黒時代のように思われていますが、家庭内においては主婦がすべての権限をにぎっていたようです。

現代のサラリーマンが奥さんに家計をまかせて小遣をもらっているのは、江戸時代からの伝統をひきついでいるといえましょう。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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