郷中教育は斉彬が変えた(後編)
島津斉彬の郷中教育改革も最終回になりました。
斉彬校長がどのようにして「荒れた学校」を立てなおし、ケンカ抗争にあけくれていた若者たちを勤勉な青少年に変えたのか。
今回はそれをご説明します。
まずは実態調査
斉彬は現代でいう三現(現場・現物・現実)主義者で、部下の報告をうのみにせず、なにごとも自分で確かめていました。
教育改革を行なうときも同様です。
藩主となって初めて薩摩に帰った翌年の嘉永5年(1852)5月3日、斉彬は郷中教育のルールがどうなっているのか確認するために、以下の通り、全郷中に対してルールブック(作法取調書、掟書)の提出を命じました。(読みやすくするため、一部漢字を仮名にして句読点をおぎなっています。原本はこちらの517頁)
御城下方限々々、郷中すべて平日の作法取調書差し出し候様、さ候て掟書もこれ有り候はば同様差し出されるべく、もっとも郷中作法に依りては、他方限へ秘密の事もこれ有る事に候由、右類は封緘の上差し出すべき旨仰せ渡され候。
近年諸士の風俗宜しからず、いささかの事より争論に及び竹木をもって打ち合い、郷中集会等も行わざる儀の向きもこれ有るやに相聞こえ、甚だ以て然るべからざる事に候。
(中略)
武士は礼儀を専らとして武芸の心掛けは勿論、学問武道をはげみ、国家の固めに相成り候こそ、武士の本意にて、城下に多人数罷り在り候も、下々の無法をいましめ、非常を鎮めるべきために候ところ、かえって無法の争論に及び候儀、全く武士の気性衰え候訳となげかわしき事に思し召し候。
その上番頭等申し諭す方も行き届かず、親兄共申付け方等閑の処より、右様成行きたる事と歎かわしく思し召し候間、きっと風俗立て直し候様申付けるべく、以来無法の争論等これ有り候はば、当人は勿論、支配頭・親兄弟迄も、きっと思し召し在らせられ候段、承知仕り候事。
【「二五一 府下各方限郷友交際ノ習慣上申」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】
最初の段落はルールブックの提出命令、部外秘のものであれば封緘して出せと命じています。
次の段落は若者たちがすぐにケンカをはじめることや、生活指導にあたる郷中の集会が開かれないことは、「甚だ以て然るべからざる事」つまり「とんでもないこと」だと叱っています。
第3段落では、武士が城下にたくさん住んでいるのは「下々の無法をいましめ、非常を鎮めるべきため」なのに、それも理解せずに武士どうしが争っているのはなげかわしいと戒めています。
そして最後の段落で、これは若者を指導べき番頭(ばんがしら)や、親・兄たちが指導を怠っているからで、今後無法のいさかいがあれば本人たちだけでなく支配頭や親兄弟も処罰するからそのつもりで、と予告しました。
毛利正直『大石兵六夢物語』挿絵(国立国会図書館デジタルコレクション)
士風改善の誓約書を全員から徴求
同様の指示は斉彬以前にもたびたび出ていましたが、あまり効果はありませんでした。
というのも兵児二才(へこにせ:狂勇自慢の青年)たちが、自分はこんな通達におびえるような男ではないとの虚勢を張ったからです。
(中編)でもとりあげた松浦静山の『甲子夜話』には兵児二才のこんな話も書かれています。(現代語訳)
春には関猟と言って、一所持の士をすべて集め、将を定め、藩主も出て猟をする。
軍事訓練だが、規則を定め、みだりに発砲することは禁じている。
ある年の関猟で命令より早く発砲した組があった。
行進が乱れたので発砲者を探すと、これがへこ組の者だった。
「お前どもの軍令違反は死に相当するが、今日は許す。他日同じことがあれば死を与う」
へこ組の者は藩主の恩に謝した。
だが、次の猟にも同じことが起こった。
数十人のへこが先に発砲したのだ。
藩主は激怒し、へこたちの意を問うた。
「さきに私どもは誤って発砲しましたが、主は我等の罪を赦し、かつ言われた、もし他日に犯す者があれば赦さぬ、と。
あの御恩、忘れるものではない。
しかし、犯す者は殺す、とあって以後命令を守れば我等が生命を惜しむかのように思われてしまう。
戦場で兵卒に先んじて死ぬことが我等の理想である。
死を怖れぬことを示すため、あえて命令に背いて発砲した。
速かに刑に処していただきたい」
これが彼らの言い分であった。
【「薩摩”へこ組”の狂勇」松浦静山 著, 高野澄 編訳『甲子夜話』徳間書店】
このように、兵児二才たちは刑罰でのおどしがきかない連中でした。
そんな連中を斉彬がおとなしくさせた方法はこうです。
まず士風矯正の諭達書を出した5日後の嘉永5年(1852)5月8日、斉彬は3日に出した諭達書を、大目付・支配頭から、すべての郷中の二才(青年)・稚児(少年)全員に伝達させました。
そのうえで15歳から25歳までの二才に対しては、この士風矯正諭達書を必ず守るという誓約書「御受書」を支配頭宅で提出させたのです。
稚児たちにも、親兄弟又は身近な親類ならびに方限内の年長の朋輩から、諭達の内容を厳しく申し聞かせて、本人が必ずそれに背かないことを誓約したという「御受書」を父兄等から支配頭へ提出させています。
困窮者の支援や無職の者に職を与えることで生活を安定させ、皆が斉彬に感謝するようになったところで、今後は態度を改めますという誓約書を郷中の全員から徴求して、しっかり約束させたのです。
藩士である以上、殿様に約束したことは絶対に守らねばなりません。
もし殿様との約束を破って乱暴な行為におよべば、先に予告されていたとおり、自分だけでなく支配頭や親兄弟にも迷惑を掛けることになります。
狂勇自慢の兵児二才たちもこれには参りました。
彼らの態度は一変して、郷中間のいさかいはなくなり、文武の修行に励むようになりました。
斉彬の指示にしたがい郷中掟を改訂
さらに斉彬は、各郷中から提出させた掟書を読んだ上で、改訂を指示しています。
郷中の掟書提出と士風改善を命じたのは嘉永5年(1852)5月でしたが、その年の10月に定められた『下荒田郷中掟』には、「士の風俗を立て直すよう、郷中取締人やその上の組頭衆に申付けられた内容を考慮して、この条目を定めた」という趣旨のあとがきが記されており、斉彬の指示にしたがって改定したことがわかります。
以下にその一部を紹介します。
下荒田郷中掟(抜粋) 嘉永5年(1852)10月制定
一、 士・農・工・商之内、士の儀は、三民の支配人にて軽からざる職分に候間、第一義理に通ぜず、武道不鍛錬にては、その取扱い相調い難き事に候につき、兼々文武の両道を研究致し、治乱共に御国家の御用に相立ち候様、その術業を誠実に修業致すべき事
一、 学問武芸の心掛けこれ無く、徒に集会いたし放逸遊楽に耽り候は、士道に相背き、不忠不孝に相当り候間、不埒の儀これ無き様相励むべく候(以下略)
一、 筆算の義は日用の急務に候間、兼々修業致すべき事
【松本彦三郎『郷中教育の研究』 尚古集成館復刻】
最初のふたつはこれまでの不行跡を改めるものですが、三つ目は「筆算」つまり「計算(=そろばん)」は必要だから日頃から稽古しておくようにと書かれています。
そもそも武士は子供の頃から「金銭は卑しむべきものである」と教わってきたので、金勘定のような計算をバカにしていました。
しかし行政官には計算能力が欠かせないことから、斉彬は郷中掟に「筆算の修業」を書き込ませて、全員にそろばんの稽古をさせたのです。
斉彬の周到さが郷中の若者を変えた
侍にも計算力が必要という意識をもっていたのは薩摩だけではありません。
幕末における思想的リーダーであった水戸藩がそうです。
水戸藩の藩校弘道館の初代教授頭取を曾祖父にもつ、社会運動家の山川菊栄はその著書にこう書いています。
烈公(水戸斉昭)も(藤田)東湖も武士が数学に暗くて商人任せになりがちのため、いつも自由に弄ばれ、財政の紊乱を重ねてきたことを憤り、自分たちもそろばんを学び、弘道館にも算数の課目をおいたのだが、急には一般藩士の興味を呼ばなかったのはやむをえない。
(中略)
弘道館でも、かたくるしい文の方は不人気で、無学な侍が多くなり、今日でいえば体育部ともいうべき武芸の方に人気が集中した。
【山川菊栄著『覚書幕末の水戸藩』岩波書店】
水戸藩でも藩士たちに計算能力が必要だと考えたのですが、対策として藩校に算数の課目を設けただけだったので、藩士の学習意欲に結びつかず失敗しました。
烈公や藤田東湖には、斉彬のような周到さが欠けていたのです。
さきに述べたように、斉彬が郷中教育の大改革を行なったのは嘉永5年(1852)です。
のちに明治維新の立役者となる西郷隆盛はこのとき26歳、大久保利通は23歳(いずれも数え年)です。
人格者として名高い二人ですが、当時は他の二才たちと同様に排他的な乱暴者だった可能性大です。
郷中教育が薩摩の偉人たちを生んだというのは、嘉永5年に行なわれた斉彬の大改革があったからこそだと私は確信しています。
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