郷中教育は斉彬が変えた(中編)

 島津斉彬が行った郷中教育の改革は、例えていえば校内暴力が頻発している「荒れた学校」を新任校長が立て直して、一流の進学校に変えたようなものです。

今回は斉彬校長赴任当時の薩摩高校のようすと、初期対応についての話になります。


郷中教育は排他的でケンカ抗争が絶えなかった

前編では、薩摩独特の教育システムである「郷中(ごじゅう)教育」の構成員は下級武士で、同じ地域にすむ青少年が互いに切磋琢磨することを目的としていたが、次第に排他的になり、西郷隆盛も郷中間のケンカで大けがをしたという話をしました。

前編でとりあげた『小稚児相中掟』『長稚児相中掟』は宝暦4年(1754)に制定されたものですが、そこでは「他の郷中の者と交際をしないように」という趣旨の定めがあります。

その約50年後の享和年間(1801~1803)にできた『高見馬場郷中掟』になると、「世間みだりの人々と心やすくなるまじきこと」と、さらに閉鎖的になっています。

郷中教育の研究者松本彦三郎は、著書『郷中教育の研究』の中でこのように述べています。

(高見馬場郷中)掟中の第二条「世間猥(みだり)の人々と心易く成るまじき事」は、第一条の「武士道に背くまじきこと」と同様にいずれの郷中掟にも掲げられたる重要事項で、しかも前者は、他藩・他地方の掟文には類例の稀なるもので郷中生活特有の規定である。 
この条項がよく守られた結果、少しく固陋的に団結し、いたずらに敵愾心を誘発し、威勢を張りあい、漸く弊風を生ずるに至った。 
「個人と個人との行違ひは、延いて郷中と郷中との問題となり、相互の談判破裂するに至れば、互に隊伍を組み、電光石火相見え、血を流し、命の遣り取りをするに至りしこと、其の例に乏しからざ」る状態となった。 
 すなわち郷中の二才達の間には、暴慢無礼を働いて剛気と心得違し、喧嘩抗争をなして勇猛と見誤り、粗傲不遜の言行をもって士風と誤信する悪風が流行横溢し、これをそのままに放置することが許されなくなった。 
【松本彦三郎『郷中教育の研究』 尚古集成館復刻】

松本氏によれば、世間と交流しないというのは郷中教育独特のルールで、これを遵守した結果、郷中の二才たちが狭い視野でかたくなに団結し、虚勢を張り、つまらぬ敵愾心をおこして、他の郷中とすぐにケンカを始めていたようです。

こういう乱暴な二才は兵児二才(へこにせ)と呼ばれましたが、少々乱暴でも軟派の吉屋二才(よしやにせ)よりもマシという見方もありました。


狂勇が自慢

兵児二才たちは死を恐れない姿勢をしめすことが武士のあるべき姿だと信じていました。

平戸藩主だった松浦静山は著書『甲子夜話』の中で、薩摩の兵児について伝え聞いた話として、ロシアンルーレットのような度胸試しの様子を紹介しています。(現代語訳)

酒宴ではぐるりと円(まる)く、人の間を広くして坐る。
天井から銃を吊り下げ、弾薬をこめ、吊り縄をいっぱいにねじってから火縄に点火する。
よりが戻ってくるくる回るうちに弾丸が飛び出す。
人は席から動かない。
弾丸に当たる者があってもかまわず、誰も悲しまないという。
【「薩摩”へこ組”の狂勇」松浦静山 著, 高野澄 編訳『甲子夜話』徳間書店】

『甲子夜話』が書かれたのは文政4年(8121)から天保12年(1841)ですから、斉彬が藩主になる10年から30年前です。

そのころの兵児二才は静山が題したとおり、まさに「狂勇」と呼ぶのがふさわしい状態でした。

彼らに指導される稚児も同様で、前出の『郷中教育の研究』には、「方限の境界を侵して一歩歩み出たというだけですぐに喧嘩を始めたのである」と書かれています。


『倭文麻環』挿絵(国立国会図書館デジタルコレクション)

「侠客(へこ)の習俗、中ごろ変じて又客気狂簡の弊(ついえ)を引出し、

横暴凌轢(りょうれき)の悪風に流れたるの光景(ようす)」


根本的な原因は貧窮 

所属する郷中はちがっていても、みな同じ薩摩藩士です。

なのに、なぜこのような抗争に明け暮れていたのか。

南日本新聞(鹿児島の地方紙)元専務で歴史研究者の鮫島志芽太は、その著書の中でこのような見解を示しています。

なぜ、兵児二才たちの狂勇を止めさせることはできなかったのか。 
それは薩摩の誇り高き“手本の時代”である貴久・義久・義弘の時代に、武士としての栄光と称賛を担った伝統が根強く受け継がれてきたからである。
とはいっても、その原因の第一は、圧倒的に多い下級武士の恒常的な貧窮、つまりは無職・無任務・無目的(知的無方針:原注)の生活状態を放置していたことにあったと見なければなるまい。
とにかく、経済生活の不安定と、藩庁の指導の不適正が続いたのである。 
【鮫島志芽太『島津斉彬の全容 その意味空間と薩藩の特性』ぺりかん社】

下級武士の困窮に起因した自暴自棄な行動を藩庁が放置していたことが、若者たちの狂勇や短絡的なケンカ抗争を生んでいたというのです。

藩主就任直後に、「学問・武芸は短期間で身につけることはできないから、若者は文武の修行に励むべし」という通達を出した斉彬ですが、「二才たちの狂勇」を止めさせるには一片の通達ではダメで、根本原因である恒常的な貧窮をなくさなければ解決しないことが分かっていました。

嘉永4年(1851)2月に藩主に就任した斉彬は、5月に国元に戻ると、ただちに困窮者の救済にとりくみます。


 斉彬は藩主就任後ただちに救恤に着手 

斉彬に側近として仕えた川南盛謙は明治37年の史談会で、

「所謂恒産あるものは恒心ありで食ふことに困る者に条理を説いても仕方がない、それで士気を養うに廉恥を知らしめ、平生救恤(きゅうじゅつ:貧者や難民をあわれみ救うこと)ということについてすこぶる注意を注がれました」

と語っていました。【「島津斉彬公逸事及川南盛謙君の事歴附三十節」『史談会速記録第149輯』】 

 「若者はケンカばかりしていないで、学問や武道に打ち込め」と言ったところで、食うや食わずの状態であれば、そんな余裕はありません。

斉彬は、生活の苦しさを暴力沙汰でうっぷん晴らしするしかない若者には、なによりもまず生活を安定させることが必要だと考えて、ただちに動きました。

以前「鶴丸城でもお参りが」で書いたように、お国入りした斉彬は、まず藩の蔵米を放出して米価を引き下げ、次には禄高の少ない者や藩の役職につけていない貧窮士族約2,000戸に1俵ずつの米を配っています。

さらに年末にも困窮家庭に金1両を支給しましたが、そのつど文武に精励するように諭しています。

また、下級武士をごく軽い役職につけて、「無職」「無任務」の人間を減らすことにも努めました。


後編では、困窮士の生活を安定させた斉彬が、狂勇に走る二才たちををどのようにして変えたのかをご説明します。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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