最高のチームで対応した神戸事件

新政府の外国通を動員

 前回とりあげた「神戸事件」ですが、できたばかりの明治政府はこの対応において「外国に反感をもたれない」ことを最優先しました。

というのも、当時は戊辰戦争のはじまりである鳥羽伏見の戦いが終っただけで、新政府軍と旧幕府軍の本格的な戦いはこれからだと考えられていたからです。

明治政府がここで外国の機嫌をそこねて、外国勢が旧幕府側につくようなことがあれば大変です。

とくにフランス公使ロッシュはそれまでも幕府を支援してきたので、この事件を利用してフランスが各国をあおり、外国勢が旧幕府軍に加担して軍事介入してくる可能性もありました。

そのため明治政府は精鋭チームを派遣して、神戸事件の対応にあたらせています。

そのメンバーは以下の通りです。


<勅使>
東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ):公家 のちに元老院副議長
<随行員>
岩下方平(いわした まさひら):薩摩藩士(家老)のちに元老院議官
寺島宗則(てらしま むねのり):薩摩藩士(洋学者)のちに外務卿
伊藤博文(いとう ひろぶみ):長州藩士、のちに内閣総理大臣 
陸奥宗光(むつ むねみつ):紀州藩士(当時は土佐藩士扱い) のちに外務大臣


岩下・寺島・伊藤はいずれも海外経験者ですし、陸奥は長崎でアメリカ人から英語を学んでいます。

さらにいえば、随行者は4人ともハードな交渉の経験者でした。

岩下は1863年薩英戦争後の和平交渉の正使であり、幕府と薩摩藩が競合した1867年パリ万博においても正使として幕府とやりあい、フランス政府に薩摩藩の主張を受け入れさせています。

寺島は1861年幕府使節団に参加して渡欧、1865年に薩摩藩留学生を引率して英国に密航したとき、オリファント下院議員の紹介でクラレンドン外相に会い日本の国内事情を説明して助力を要請、駐日公使パークスが薩摩に好意的となる一因をつくりだしました。

伊藤は1863年英国に密航(長州ファイブ)、1864年に帰国し四国艦隊下関砲撃後の講和交渉で高杉晋作の通訳を務めて、領土問題では一歩も譲らなかった高杉のきびしい姿勢を学んでいます。

陸奥は神戸の海軍操練所で坂本龍馬と知り合って行動を共にし、長崎の海援隊時代には外国人貿易商との交渉を担当していました。

つまり、語学力と交渉力を兼ね備えた新政府のベストメンバーでのぞんだわけです。

東久世通禧(国立国会図書館デジタルコレクション)


意向探索と下工作

神戸事件がおこったときは、外国公使の全員が神戸に集まっていました。

というのも、その前月の12月7日に兵庫開港式典があり、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ドイツ・イタリアの各公使が参列していたからです。

同月16日には徳川慶喜が大坂城で公使たちを謁見して、「大政奉還後も外交権は自分にある」と宣言しました。

公使たちは謁見後もそのまま大坂に滞在していましたが、鳥羽伏見の戦いがはじまったので、京都からより遠い神戸の居留地にうつりました。

そのときに神戸事件がおきたのですが、ここで大きな問題が起こります。

日本側の交渉相手が分からなくなったのです。

外交権が幕府にあると言われていたのに、鳥羽伏見の敗戦で将軍以下幕府の役人はみな江戸に逃げてしまったため、交渉窓口が消滅してしまいました。

当時のようすを、ドイツ公使ブラントがこのように書いています。

言葉の真の意味において交渉相手の政府が存在しなくなってしまったということ、今、描写した事件(神戸事件)や、その他の問題について、それを持っていって交渉すべき政府が消えてしまったということ、このことによって、われわれ各国代表は今や事態を真剣に考えなければならない羽目になった。
大君(将軍)の官吏は皆逃げてしまい、帝の官吏とは、われわれはいまだ関係を持っていなかった。
帝の官吏がそもそも、われわれと関係を持つ気があるのかどうかすらも分からなかった。
【M.V.ブラント著 原潔・永岡敦訳『ドイツ公使の見た明治維新』新人物往来社】

そのような状況のときにやって来たのが、東久世使節団です。

交渉にあたってはひとつむずかしい問題がありました、公使団の総代が幕府と親密なフランス公使ロッシュだったことです。

そこで使節団は交渉に入る前にひそかに各国の意向をさぐって、下工作を行ないました。

東久世の伝記にあたる『竹亭回顧録 維新前後』にはこのように書かれています。(読みやすくするため現代表記にあらため、一部漢字を平仮名にしてあります)

(東久世)卿は岩下佐治右衛門(方平)、寺島陶蔵(宗則)、伊藤俊輔(博文)、陸奥陽之介(宗光)等を随行者として神戸に赴き、先ず伊藤、寺島、陸奥等をして各国公使の意向を探らせ、通弁(アーネスト・サトウら外人通訳)にも内意を通じて充分な拵えをさせた。
この時兵庫に在りし外国公使は、仏、英、伊太利、米利堅、普国、蘭の六ヶ国で、仏国の全権公使レオンワセス(レオン・ロッシュ)がこの談判の総代というべき位置に立って居た。
これは仏国人が砲撃され負傷した故である。
ここに注意すべきは、仏国は幕府と極めて親善の間柄で朝廷に対しては善意を有して居ない。
(中略)とにかく仏国公使は朝廷に政権の帰したのを喜ばないは、従前の関係上そう有るべき事である。
【「兵庫の事変」東久世通禧『竹亭回顧録 維新前後』新人物往来社 幕末維新史料叢書3】

情報収集と根回しを行なうとともに、朝廷に敵対してきた仏公使ロッシュの動きを警戒していることがよくわかります。


新政府を承認させ、外国の軍事介入を回避

交渉では、まず東久世が新政府が幕府を承継するとの通告文書を読み上げました、英国通訳のアーネスト・サトウがその時のようすをこう書いています。

この文書の内容は至って巧みに作られていた。
天皇が従前の諸条約に対して義務を負うのは当然のことであるとし、したがって今後は天皇の称号をもって大君(将軍)の称号に代わるものとすると述べ、条約については単に付随的に述べてあるだけだった。
翻訳がすんで、これを全部の公使に見せると、今度は天皇の使者に質問の矢が放たれたが、東久世は巧みに応答した。
(中略)
天皇政府は備前事件(神戸事件)に関し、神戸在住の外国人の生命財産を保護し、備前藩の処罰を主張する外国代表側の要求をいれることを保証した。
そこで、これを条件として海兵隊及び水兵は軍艦へ引き上げ、汽船も釈放することになったのである。
(中略)
使者の東久世は天皇の政府を代表して、外国代表がこの通告を各政府に報告して、自国の人民に公示するや否やを承りたし、と言った。
これは天皇政府の「承認」の要求にも等しいものだった。
ロッシュは赫怒(かくど:ひどくおこること)して、「こうした人々に任せてはならん」と言った。
するとイタリアのデ・ラ・ツール伯とドイツのフォン・ブラントがロッシュに向って語気を強め、それどころか、われわれは先方からそう言って来るのを待っていたのではないかと応酬した(もちろん、私たちが大坂の薩摩屋敷で秘密の相談をやったことなど知らなかったのだ:原注)。
ここにおいて、だれもかれもが自国の政府にこれを報告すると言ったので、天皇の使者もこれに満足した。
【アーネスト・サトウ 坂田精一訳『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫】

事前工作によってロッシュ包囲網をつくっておき、新政府を承認させるとともに、外国の軍事介入をふせぐことに成功したわけです。

また「天皇の使者に質問の矢が放たれたが、東久世は巧みに応答した」とあるように、公使たちからの質問に対し、東久世は即座に適切な回答をして高い評価を受けました。

東久世が三条実美と岩倉具視に送った書面にはこう書かれています。(一部読み下し文に修正)

「(公使たちは)徳川役人と多年応接これあり候えども、今日の如く断然たる応接はこれなしと公使共申し居り候」【前掲『竹亭回顧録 維新前後』】

それまでの幕府役人との交渉では常にあいまいな回答しかなされなかったのに対し、東久世がはっきりと即答したことが新政府に対する信頼感を高めました。

随行員たちの事前調査にもとづいて、どのように答えるか、使節団が周到な準備をしていたことがうかがえます。


公家の外国通とは?

精鋭メンバーをそろえて新政府発足直後の危機をうまくしのいだ東久世チームですが、そもそもなぜ下級公家の東久世が勅使に選ばれたのでしょうか?

東久世通禧は三条実美らとともに尊攘過激派の公家として知られ、八月十八日の政変で京都を追われて長州に逃げ、第1次長州戦争のあとは太宰府に移されています。

この太宰府時代にひそかに長崎を視察したことが東久世の転機となりました。

太宰府の警護にあたっていた薩摩藩の大山綱良の手引きで、薩摩藩士として長崎に行き、そこで五代友厚の助けをかりてイギリスの貿易商グラバーをはじめ、オランダ貿易会社代表のボードウィン、アメリカ人宣教師フルベッキらと交流しています。

新政府の要職についた公家達ですが、京都からでたことがなく外国との交流どころかそもそも交渉能力すら疑われるような人がほとんどでした。

その中にあって、長崎で外国人と交流した経験をもつ東久世は貴重な存在でした。

明治27年の史談会で、東久世本人がこのように語っています。(読みやすくするため現代表記に改め、一部漢字を平仮名にして、あきらかな誤字は修正しています)

正月十二日に外国係となって、各国の公使に応接の儀を仰せ付けられましてござります。
全体、私に向けて外国公使との談判を仰せ付けらるるというものは突然な事であって、然るべき人が朝廷にあったが、どういうもので拙者に外国談判を仰せ付けられたかというに、それには少々次第があるのでござります。
外国談判と云うものは、一体徳川家が朝敵になって、総ての政治を朝廷で為さるるという事を外国公使に報告せねばならぬという事になって、成るべくは公卿の中で、その役を勤むるが宜いという事であったそうでござります。
ところが公卿の中に誰も外国公使に逢った者もない。
外国人の顔を見た者もないということで、誰が宜かろうということで、私だけは外国人の顔を見て居るという訳で、私は外国人に逢って居るから、外国人の意気込みも知って居ろうから、あれが宜かろうという事で、私になったということでござります。
【東久世通禧「維新の際朝廷外交事件を処理せられたる事実附十九節」『史談会速記録 第19輯』】

東久世が選ばれた直接の理由は外人に会ったことがあるというだけでしたが、もともと過激派公家で度胸があり弁が立ったことに加え、精鋭揃いの随行員がサポートしたことで交渉を成功させました。

くりかえしますが、明治元年の日本は西欧列強とはくらべものにならない弱小国でした。

そのような状態で、滝善三郎という犠牲をはらったものの、自分たちの望む形で交渉を終結させています。

さて現代の日本はどうでしょうか?

本年最大の課題である日米関税交渉が4月に始まりましたが、3ヶ月たった今でもまったく進展していないようです。

交渉開始時はフロントランナーと言われていたのが、交渉を7回重ねても「お互いの立場を確認した」という報道しかされません。

今回は担当大臣が渡米しても米商務長官とは電話で会談、統括役の財務長官には会えなかったと報道されていますから、いまや最後尾集団の中をヨタヨタ走っている状態でしょう。

私には今の政権が、姑息な(=その場しのぎの)対応に終始して各方面から見放された、江戸幕府の末期と重なって見えます。

交渉する政治家の資質か、サポートする官僚の能力か、あるいはその両方か、いずれにせよ150年前の明治政府より劣っているのは間違いありません。

7月20日はかならず投票に行きましょう。







幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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