外国人優遇と神戸事件

国民の怒り 

 Xで「外国人優遇」がトレンドに入っていました。

観光立国推進で外国人観光客が急増(2014年→2024年:1,341万人→3,687万人)したり、外国人労働者(同 79万人→230万人)や外国人留学生(同 18万人→34万人)の受け入れを増やしたりしたことにより、あちこちで外国人の姿を目にするようになりました。

その結果として、外国人がらみのさまざまな事件や問題が目立つようになっています。

そこで言われはじめたのが、「外国人優遇」です。

自動車運転免許を外国人には簡単にあたえたり、3か月間日本に滞在するだけで国民健康保険が使えて高額な医療費がタダ同然になったり、外国人留学生向けに日本人学生より手厚い奨学金制度を設けたり、さらには最高裁がはっきりと否定した外国人への生活保護を国会で厚生大臣が「人道的見地から」認めたり‥‥、などいまの自公政権が外国人を優遇しすぎていることに国民が怒りはじめているようです。

じつは幕末もおなじような状況がありました。

西欧諸国と締結した(させられた)通商修好条約においては、領事裁判権(治外法権)が定められていました。

つまり、外国人が犯罪を犯しても日本の裁判にかけられず、母国の領事がそれぞれの国の法律によって裁くことになっていたのです。

日本の役人が外国人を取り締まることができないのをいいことに、不良外人たちはあちこちで乱暴狼藉をはたらいて日本人の反感をかっていました。

そのような状況だったから、生麦事件で大名行列をみだした英国人を日本のルールどおり無礼討ちにした薩摩藩が大喝采を浴びたのです。

ところで、明治政府が発足した直後にも外国人優遇といえる出来事がありました。

明治元年(1868)1月11日に起きた「神戸事件」です。

これは西宮に向う備前藩(岡山池田家)の兵士たちが神戸を通ったとき、行軍の行列を横切った外国兵とトラブルになり、互いに発砲した事件です。


神戸事件

事件は外国人居留地に隣接する三宮神社の前で起きました。

神戸事件発生の地、三宮神社(ブログ主撮影)


事件発生地の兵庫県が作成した『兵庫県百年史』にはこのように書かれています。

午後二時ごろ、銃隊を先頭に第一砲隊が三宮神社前(造築中の居留地第四八区画:原注)にさしかかったさい、一アメリカ兵が隊列の前を横断しようとし、隊士に制止された。
これをみたイギリス水兵が第三砲隊長滝正信にピストルを向けて威嚇した。
滝の命令で隊士が水兵の腹に長槍の一撃を加え、その逃亡するのを先手の銃隊が射撃したが、部隊はそのまま行進した。
しかし備前兵の銃弾はイギリス領事館に達した。
パークスは、各国軍艦に信号させ、ただちに各国連合の陸戦隊が編制された。
アメリカの海兵隊、イギリス兵の半数は備前兵を追跡し、イギリス兵は生田川原で備前兵をいっせいに射撃した。
備前兵は散開して応射したのち、山手新道にはいった。
【「第二章 兵庫開港と兵庫県の設置」兵庫県史編集委員会『兵庫県百年史』】

ここでは「アメリカ兵」「イギリス水兵」となっていますが、どちらも「フランス人水兵」だったとする史料もあります。

ようするに外国人居留地にいた一人の外国兵が備前藩の隊列を横切ろうとして制止され、それに反発した別の外国兵がピストルを向けたため、備前藩兵がその兵士を長槍で突き、逃亡しようとしたところを射撃したようです。

射撃といっても威嚇射撃だったようで、”ジャパン・クロニクル”に掲載されたF・ケリーの手記には「外国人のいやがらせ共にバラバラと何の危害も与えない数発を射った」と書かれています。

事件の結果としては、問題の発端となった外国兵2名が軽傷を負ったとあるので、たぶん槍傷でしょう。


パークスが怒り、責任者は切腹

これが大問題になったのは、運悪く居留地に英国公使パークスがいたからでした。

文部省が編纂した『維新史』には銃声を聞いて馬で駆けつけるパークスにも発砲したとありますが、威嚇射撃であれば空に向って撃つだけです。(馬上で銃声を聞いたパークスが、自分をねらって撃ったと勘違いした可能性はあります)

パークスはただちに戦闘態勢に入り、外国連合軍を組織して居留地周辺の神戸中心部を封鎖し、神戸港内にあった日本の汽船をすべて抑留するという強硬措置をとりました。

できたばかりの明治政府にとって、大変な事件になってしまったのです。

当時の日本は武力において西洋列強と天と地ほどの差があったため、戦争になればたちまち負けて、最悪の場合は植民地にされてしまう恐れもありました。

となると、明治政府としては、ひたすらあやまるしかありません。

行進する軍列の前を横切るのは欧米においても無礼な行為とされており、備前藩が制止したのは当然ですし、ピストルを向けてきた者に威嚇射撃をするのも通常の行動です。

しかし、『パークス伝』では、さきに無礼をはたらいた外国兵にはふれず、備前兵が一方的に悪者にされています。

備前兵の一隊が、充分な武装をし野砲を備えて、「下ニイロ!(膝まずけ)」と叫びながら、神戸の町へなだれ込んできた。
土地の人間はすぐその通りに従ったが、外国人にはそれができず、まもなく弾丸の雨を浴びて、命からがら逃げざるをえなかった。
英国公使はこのとき、この新居留地を横断しようとしていたので、例の迅速機敏さで直ちに公使館の警備所に行き、警備隊を引率し、第九連隊分遣隊とフランス・米国海兵隊を伴って、まもなく襲撃者たちを追い返し、彼らの野砲を捕獲した。
その後まもなくして、備前藩の士官は部下の統率ができなかった罪を償うため、ヨーロッパと日本の役人たちの立ち会いのもとに、切腹(ハラキリ:原文のルビ)をさせられた。
【F.V.ディキンズ 高梨健吉訳『パークス伝 日本駐在の日々』平凡社東洋文庫】

これが当時の外国側の主張だったのでしょう。

明治政府はこの一方的な決めつけに反論することもせず、責任者として発砲を命じた砲隊長の滝善三郎(正信)を切腹させて謝罪しました。

神戸事件説明板にある「滝善三郎切腹の図」(ブログ主撮影)


検視役として立ち会い、滝の切腹を見届けた伊藤博文(外国事務局判事として交渉に参加)は、その時のようすをこう語っています。

家来の滝善三郎と云うが罪を皆な自分に引受て、私が号令したのであると名乗って出た。
それで割腹を命じろと云うので割腹を命ぜられた。(中略)
吾輩は検視をしなければならぬから、兵庫の寺へ滝善三郎を連て行って薩長の兵を屏風の如く立たして置て、外国人にも切腹を見たいものは来いと云うてやった。
海軍の士官或は書記官なども珍しいから見物に来て非常に沢山の見物が来た。
滝善三郎は麻上下で剣術の師範役故、門人も沢山居ったがそれが皆来て居った。
本膳で食事をして謡曲を唄ったりして、それから本堂の前に出て吾輩に御辞儀をして其から外国人に挨拶をした。
過る十日は主人通行の節、外国人に向って乱暴に発砲したのは全く此滝善三郎が号令したに相違ない、其罪に拠て今日朝廷より割腹を仰付らるる、宜く御検視を願う、と挨拶をして儀式通り三宝に載てある短刀を執って腹を切って、其短刀を三宝の上に復た載て首を前へ出す処を、ばたと首を落した。
それで外国人も肝を冷したのだ。
そう云う事で備前の始末は附いた。
【東久世通禧『竹亭回顧録 維新前後』新人物往来社 幕末維新史料叢書3】

物見遊山気分で滝善三郎の切腹を見に来た外国人たちはその凄惨さにおどろいて「肝を冷し」、事件の決着がつきました。


滝善三郎「外国人優先とは知らなかった」

滝善三郎は切腹の直前にこのような言葉を残したとされています。(分かりやすくするために現代表記に改め、句読点を加えています)

去月十一日、神戸に於て行列へ外国人共理不尽に衝突したるに付、吾が国法に違うを以て兵刃を加え、続けて発砲を号令せしは即拙者なり。
吾人は遠国の者にて、朝廷斯くの如く外国人を鄭重に御取扱に相成ること全く承知せず。
今、過日の罪科を償うため、此に割腹して死す。
御見証を乞う。
【御津町文化財保護委員会『御津町史料 第4集 神戸事件と滝善三郎編』】

滝が語ったことを現代文に言いかえると、こうなります。

「行列に外人どもが無礼をはたらいたことはわが国の法に反するので、兵士に槍で突かせ、続けて発砲を命じたのは拙者である。

自分は田舎者なので、朝廷がこれほどまでに外国人を尊重しているとは全く知らなかった。

そのときの罪をつぐなうために今ここで切腹して死ぬから、よく見届けてくれ」


攘夷から一転して外国人優遇へ

幕末、朝廷は幕府に対し「ただちに攘夷を実行せよ!」「外国人を打ち払え!」と声高に要求しつづていました。

しかし外国に武力行使すれば相手に攻撃の大義名分をあたえるだけで、戦争に負けた日本は植民地にされてしまう公算大でした。

出来ないことを要求する朝廷と現実の板挟みに苦しんだ幕府は、慶応3年(1867)10月4日、将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還の上表文を提出しました。

同年12月9日に朝廷は王政復古を宣言し、形だけは新政府が成立しましたが、実務をおこなう能力はなく、末端行政や外交は依然として旧幕府が行なっていました。

ところが翌明治元年1月3日からはじまった鳥羽伏見の戦いで徳川方が大敗、1月6日夜に慶喜が大坂城を脱出して旧幕府は消滅し、朝廷はいきなり外交の矢面に立たされます。

その直後となる1月11日に起きたのが神戸事件でした。

このとき朝廷(明治政府)は、攘夷というそれまでの方針を180度変えてしまいました。

滝の言葉は変節した朝廷に対する痛烈な批判です。

西洋外交史にくわしい内山正熊元慶應義塾大学教授は当時の日本外交をこのように論評しています。

幕末と維新との断層に立って、男らしく責任をとって行った滝は、一意西洋列強には逆らうことをせず、ひたすら低姿勢に終始し、正論を主張しなかった維新政府当局者の卑屈な態度と好対照をなしている。
滝は、非が外国人にあることを知りながら、自分は田舎者で朝廷の新しい外国人の扱い方を全く知らなかったのでやった罪を償うといっているのであり、明治政府のようにこちらが悪いから謝罪して償うという態度より遙かに筋を通している。
【内山正熊「維新外交の発進―明治元年の神戸事件をめぐって―」『法学研究 55巻10号』】

王政復古直後で国内統一すらできていない明治政府が、外国と事をかまえないためにへりくだるしかなかった事情はわかります。

しかしそれから157年後の日本において、政府や一部自治体が外国人の勝手なふるまいを放置しているようにみえるのはまったく理解できません。

国民の意思を示すために、7月は投票に行きましょう。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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