寺子屋と学校のちがい

寺子屋とは

 明治維新は日本の社会に大変革をもたらしましたが、そのひとつが教育制度です。

江戸時代、庶民の子どもたちの教育機関となっていたのが「寺子屋」でした。

寺子屋の起源としては、平安貴族から政権をうばった武士階級の教育を寺院が行なったことによるという説があります。

平安時代末期、関東の武士は京都の公家たちから「東夷」(あずまえびす:東に住む野蛮人)とよばれてバカにされていました。

そのバカにされていた連中がつくった鎌倉幕府が政権を手にしたとき、貴族の没落によって律令制にもとづく教育機関が衰退してしまったため、武士の教育を行なうところがありませんでした。

とはいえ指導者階級の武士にはリーダーにふさわしい人格識見を身につける必要があります。

そこで漢文のお経が読め漢籍にもつうじた僧侶が知識人として教育担当にえらばれて、寺院が教育機関になったのです。

この流れは戦国時代までつづき、戦国武将の雄武田信玄は8歳のときから甲府の長禅寺で、上杉謙信は7歳から春日林泉寺で学んでいますし、島津家中興の祖といわれる島津忠良(日新公:島津四兄弟の祖父)も7歳のときに領内の海蔵院というお寺に連れて行かれて、そこで頼増法印という僧侶から9年間のきびしい教育を受けています。

やがて武士以外の庶民も寺院で教育を受けるようになりますが、江戸時代にはいると武士の教育機関として藩校などが整備され、庶民の教育も寺院からはなれて、都市や農村のなかに教育の場として「寺子屋」が誕生します。

つまり、教育が独立した産業になったのです。

寺子屋の指導者(=経営者)は当初は武士がほとんどでしたが、教育を受けた農民や町人も指導者となり、寺子屋の多い都市部では女性が指導にあたるところも出てきました。


寺子屋教育は個別指導

寺子屋教育の教え方は「個別指導」です。

江戸時代の文化を研究する江戸東京博物館の学芸員市川寛明・石山秀和両氏は江戸時代の寺子屋教育をこのように説明しています。

寺子屋では、文字の読み書きといった基礎的な学力の習得をめざしながらも、人格形成を重視する教育が行なわれていた。
また、体罰らしい体罰もなかったし、子どもたちへの指導も、現代のような画一的な一斉教授ではなく、年齢や学習進度、一人ひとりの子どもの必要性に根ざした教育内容を教師が考えて行う個別教授が基本であった。
【市川寛明・石山秀和著『図説 江戸の学び』河出書房新社】



艸田子三径『増補男重宝記』より「手ならひ仕やう」(東京大学総合図書館所蔵)


寺子屋での教育は個別指導でしたから、教える内容も生徒ごとにちがっていました。

上の絵にあるように、生徒たちはバラバラの向きですわり、先生は生徒をひとりずつ呼んで指導しています。

というのも生徒たちは同じ教室にいながら、別々のことを学んでいたからです。

江戸時代は身分制社会で、ほとんどの職業は世襲つまり父親の仕事やポストを息子が引き継ぎました。

つまり子どものときから将来の職業が決まっていたので、それに応じて必要とされる知識もハッキリしていたのです。

このため寺子屋では各生徒の将来の職業に応じて、個別のカリキュラムを組んでいました。

身分制社会というのは家柄によって各人の将来が決まってしまう社会、いいかえれば能力が出世に結びつかない社会です。

したがって寺子屋教育においては、現代のように立身出世(成績が良ければいいポストにつける)という学習動機は存在しません。

あくまでも自分の家の仕事、もしくはふだんの生活に必要な知識を身につけるのが目的です。

商品経済が急速に発達した江戸時代においては、農工商のどの分野でも貨幣の計算や帳簿付けなど「読み書きそろばん」の知識が必要になります。

寺子屋ではそのような基礎リテラシーに加えて、各業種ごとの必要知識を教授していました。


人格教育

先ほどの引用文で「寺子屋では、文字の読み書きといった基礎的な学力の習得をめざしながらも、人格形成を重視する教育が行なわれていた」とあったように、寺子屋は基礎学力の習得だけではなく学習をつうじて人格を形成する場でもありました。

寺子屋教育のもうひとつの特徴は、学習が道徳と結びついていたことです。

前出の市川寛明氏は、寺子屋で教科書として使われた「往来物」の特徴をこう述べています。

注目すべき第一点は、先に掲げた朱子学者・貝原益軒の学問観(朱子学思想)とほぼ同じ内容が寺子屋の教科書である往来物に登場するようになったことである。
第二に、学問する目的が、道徳的な実践主体として自己を確立するという朱子学の教えに沿って論じられている。
第三に、教育の目的が、生活に必要なリテラシーという一種の技術を体得させようとする最小限の功利的な学習観よりも、自ら学ぶ行為自体に価値を見いだす主体的な学習観がより強調される段階へと変化している点である。
ここにいたって(中略)よりよき完成された人間に子どもを育て上げようとする庶民の教育思想をみてとることができる。
【市川寛明・石山秀和 前掲書】

寺子屋教育のねらいは、庶民の子どもたちを道徳的で主体性をもった人間に育てるということでした。

いくら成績が良くても出世できない社会ですから、「勉強しないとエラくなれないぞ」は通用しません。

生徒たちが「勉強が楽しい」「もっと知りたい」と思って、自発的に勉強するような指導がなされていたのです。


個別教授から一斉教授へ

明治維新によって四民平等の世の中となり、日本の教育は一変します。

明治政府は日本を一刻も早く西欧諸国のような近代工業国家にしようとして、急速な西洋化を進めました。

それには、優秀な労働者が多数必要になります。

身分制がなくなったことで自由に職業が選択できるようになった子どもたちには、将来どのような職業についても使えるように、基礎学力として全員に同じ一般教養を学ばせるように変えました。

これによって現代まで続く学校教育のスタイルが生まれたのです。


鮮斉永濯「小学入門教授図解」(国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション)


明治政府は個別指導の寺子屋教育を捨てて、教え込み型の一斉教授法に変えました。

新しくできた学校では、生徒たちは全員先生の方を向いて同じことを学んでいます。

全員が同じことを学ぶのですから、同じ内容の試験を実施するだけで各人の理解度がわかります。

勉強の目的は道徳的で主体性をもった人間を育てることから立身出世の手段に変わり、受験戦争がはじまりました。


現代日本の教育

今の日本では教育は、初等教育(小学校)、中等教育(中学、高校)、高等教育(大学)の3段階に分けられています。

このうち義務教育とされるものは小・中学校ですが、政府が高校を無償化したため実質的には高校までが義務教育のようになっています。

昔は中卒で働く人もけっこういたのですが、現在ではまず見かけません。

高卒が最低学歴のようになっています。

くわえて、少子化が進んでいるにもかかわらず大学の新設を認め続け、いわゆるFランク大学を増やして、金銭的余裕さえあれば誰でも大学に入れるようにしました。

これはオフィスでデスクワークに従事する「ホワイトカラー」を増やして、工場や建設現場で働く「ブルーカラー」を減らしたい政策のように見えます。

この動きは私には政府が日本の国力を弱めようとしているとしか思えません。

というのも、以前にある上場企業の会長と話をしたとき、「日本の強さは、現場の優秀な課長だ」と聞かされたからです。

その方によれば、

「日本の工場では設計部門から回ってきた図面におかしな部分があれば課長が気づいて修正させるが、インドの工場では図面がおかしくてもそのまま作ってしまう。

日本では大卒の設計者より技術力がある高卒の課長が珍しくないが、海外ではそれはない」

とのことでした。

そうであれば政府が行なうべき政策は優秀な現場の作業者を増やすことで、そのためには高校をすべて無償化するのではなく、高専や工業高校・農業高校・商業高校など職業教育を行なう高校だけを無償化すべきだとブログ主は考えます。

少し前までは、未来の世界においては肉体労働的な仕事はロボットが取って代わり、頭脳労働やクリエイティブな仕事を人間が行なうと予想されていました。

しかしAIの急速な発達でその予想は逆転し、医者の診断も弁護士の法律相談もイラスト描きもすべてAIがやってしまう時代が訪れそうです。

そうなればホワイトカラーよりもブルーカラーの方が重要になります。

日本が「もの作り大国」であることを理解して、時代の変化に対応できる政府になって欲しいものです。





幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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