意見を聞く、ただし専門家の

鹿児島の砲台配置は勝海舟案

 前回の最後に、薩英戦争で英国海軍の上陸を阻止できたのは島津斉彬が築いた砲台があったからだという話をしました。

あまり知られていませんが、この砲台の配置を考えたのは薩摩藩士ではなく、幕臣の勝海舟です。

というのも、明治21年6月6日に勝海舟が島津忠義・忠済の両公爵から袖ヶ崎の島津邸に招かれ、斉彬・久光の思い出を語った中にこのような発言があったからです。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)

順聖公(斉彬)かつてお話しあり、「お前自身のつもりにてひそかに企図する旨を以ってオランダ人に就き鹿児島を攻むるの方略を詢(と)えよ」と。
オランダ人は予(海舟)の本意を知らず、真に鹿児島を討つの意あるものと認めしや、得意然として攻略の方法を講演したり。
よって私、その主意に基づき砲台の位置等を考案し、図面を調製して贈呈したることあり。
また六十ポンド長加農(カノン)砲の図をも製してこれを添えたることあり。
(しらべるに勝氏の贈れる図面に基づき前の浜砲台を築造せられ、及び砲を鋳造あらせられしと伝う)
【「島津家事蹟調査訪問録 故伯爵勝安房君談話」『史談会速記録 第165輯』】

外様大名の斉彬が幕臣の勝にこのような依頼をするのは、違和感があるかも知れません。

じつは貧乏旗本だった勝海舟の才能を最初に見いだしたのは斉彬で、ひそかに資金的援助をしたり、老中首座の阿部正弘に勝を推薦したりしています。(くわしくは次回で)

昔からの親密な関係があったから、勝は斉彬の依頼を引き受けました。

勝は長崎の海軍伝習所の幹部でオランダ語も使えたので、斉彬の依頼だということを隠し、自分がひそかに考えていると言って教官のオランダ人たちに鹿児島の地図を見せながら攻略法をたずねました。

そうして彼らの意見を聞いたのちに、その攻撃を防ぐための砲台配置図を書いて斉彬に提出し、勝の図面にしたがって砲台が築かれたという流れです。

イギリス艦隊が射程距離が長く命中精度も高いアームストロング砲を備えていたことは想定外でしたが、西洋軍艦の戦法を知った上での砲台配置ですから、効果を上げたのは当然です。

西洋の武器・戦法をもっともよく知っているのは西洋人だから西洋人(オランダ海軍士官)の知恵を借りればよい……、攘夷思想がはびこる中でこんなことを考え、実行してしまうのが斉彬の真骨頂です。

仙巌園に復元された薩摩の150ポンド砲(現在は展示されていません)


専門家の意見を聞く

島津斉彬は同時代人の中で知識も見識も傑出していたにもかかわらず、検討にあたっては必ず専門家の意見を求めています。

前にも書きましたが、四賢公の一人で斉彬と懇意にしていた宇和島藩主伊達宗城は、斉彬について

決して独断専恣(せんし:気まま)の挙動なく、用意慎密(しんみつ:つつしみ深く注意がいきとどく)なり。
少しく重事(おもきこと)となれば必ず予等始めへ御相談あり、決して一己の専決に任せられざることなりき。
【「島津家事蹟訪問録 故伊達従一位(宗城)ノ談話」『史談会速記録第176輯』】

と語っています。

つねに注意深く慎重で、少しでも重要だと思えば必ず他者の意見を求めており、けっして独断専行することはなかったそうです。

今回のケースではたずねる相手がオランダ海軍士官なので、疑われないように幕臣の勝海舟を使いましたが、だいたいは斉彬自身が質問しています。

そんなことができたのも、斉彬が当時の大名としては異様なほどに幅広い人脈をもっていたからです。

斉彬公史料には、「公は元来度量宏大にましましたるは皆人知るが如し、御壮年の時よりひろく有名の人士に声息を通ぜられ」とあり、親密な交際先として大名17名、幕吏18名、処士(学者など)17名の名を挙げています。【「一四一 有名ノ人士ニ声息ヲ通ゼラレシ事実」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』151頁】

そこに書かれている人名は、大名では水戸斉昭・松平春嶽・阿部正弘など、幕吏は川路聖謨・岩瀬忠震・大久保一翁・勝海舟・江川英龍など、処士は藤田東湖・佐藤一斎・佐久間象山・渡辺崋山・高野長英などまさに当時のオールスターという感じです。(親しかった山内容堂が漏れているところをみると、これでも全部ではないはずです)

さらにいえば、砲台のような軍事上の質問は軍人に、政治上の問題であれば幕府の役人や賢公といわれる大名に、技術論は洋学者、人物論は漢学者にと、問題に応じて相手をきちんと選別しています。

テレビのワイドショーでは「〇〇にくわしい、XX大学(たいてい無名)のナントカ教授」といったうさんくさい人物や、まったく場違いなタレントが勝手な論評をしゃべっていますが、斉彬の相談相手はそれとは真逆でした。

これは余談ですが、かつて東大の某教授と話をしたときに、「私はテレビには一切出ません」と言われたので理由をたずねたことがあります。

すると、「以前テレビ局から、ある問題について解説してくれと頼まれたので、『それについてはAとBという二通りの見方があります』と答えたら、『それでは困るから、どちらかに決めつけてくれ』と言われた。学者としてそんな無責任な発言は出来ないので、それ以来テレビ出演は断ることにした」とのことでした。

その先生が付け加えた、「だから、テレビでしゃべっている学者は信用できませんよ」という言葉が印象に残っています。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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