徳川慶喜の弁舌(2/2)

父に代わって詫びる

 前回は日米通商条約について水戸斉昭の意見をたずねにきた川路聖謨と永井尚志に対し、斉昭が激怒して追い返したことを聞いた一橋慶喜(斉昭の七男)が、父親をやり込めた話でした。

今回はその続きになりますが、前回と同じく現代文に変えて概略を紹介します。【原文「慶喜公と烈公の舌戦」は加藤貴校注『徳川制度(下)』岩波文庫に収録】

父斉昭から「お詫びの委任状」を受取った慶喜は、その翌日に川路・永井だけでなく外国奉行岩瀬忠震、井上清直、大目付土岐頼旨らを一橋邸に呼びよせました。

そうして、川路・永井に対しこう語りかけます。

「昨日、小石川の水戸藩邸に行って老父の思いを聞いた。

老父は年のせいで短気になっている上に耳が遠いため勘違いすることが多く、両人が来たときも年来の持論とは反対の相談だったので気に障り、自分の言いたいことだけ言って相談の中身を無視してしまったのは不敬のふるまいで、両人はもちろん、堀田老中にもたいへん無礼なことをしてしまったと、ひどく後悔していた。

それで、このたびのご相談についてだが、これは攘夷を持論としてきた老父の立場からは賛成しがたいことであるが、時勢はやむを得ない状況になっており、将軍も賛成されているとなれば、老父としては支える立場にはないが、老中たちが力を合わせて幕府のために働くことを願っているとのことだった。

昨年末の粗忽をひどく後悔して、堀田老中へは詫び状を差し出したので、これは両人(川路・永井)から届けて欲しい。

今申したとおり、幕府の方針に異議がないということをよく伝えてもらいたい。

両人がとんでもない目にあったことは、お気の毒に思っている」

とていねいに謝ったので、川路・永井の両人は思っていた以上の内容に感謝して深々と頭を下げ、お礼を言って退出しようとしたところ、慶喜は「しばらく」と言って引き止めました。

今回の本題はここからです。


斉昭は昔の能衣装

慶喜は唐織の能装束をとりだして、川路・永井に向い

「これは故儀同殿(ぎどう:11代将軍家斉の実父一橋治済の別称)のときのもので、良い品と聞いている。

昔はこのようなものがなくては能楽はできないといわれたものだが、この頃の時勢では能楽を楽しむどころではないので、この唐織の装束も無用のものとなった。

各々は外国交渉の要職にあり、儀同殿の頃の唐織装束と同じく重要な役目を負っているので、これを差し上げる。

陣羽織なり、小袴なり、時宜にあったものに仕立て直して使ってもらえれば、時代遅れの唐織も再び日の目を見られるので、私も満足だ」

とおっしゃって御手みずから下されたので、両人は平伏して慶喜の至れり尽くせりのはからいに感動し、唐織を押し頂いたまましばらくお礼もできませんでした。

そのとき慶喜は言葉をあらため、一同を見わたして、

「老父の過失は今も申したとおりで、あらためて言うまでもないが、攘夷の持論は昔から有名で、各々も知っているとおりだ。

古めかしくて今の用には立たない能装束のようなものなので、各々もそれを理解して、過去の遺物とあしらってくれればこのような問題にならなかったのだが、事新しげに取り扱われたのは、かえって能衣装の不幸、そして老父の不幸である。

古い唐織が利用の仕方で役に立つように、老父の古風なる議論も、執り成し方によってはそれほどの大事件にはならないだろう。

老父の態度は今回に限ったものではないだろうから、今後もそのように心得て扱っていただきたい、よろしくお願いする」

と言われたので、川路・永井の両人は烈公の議論に出逢ったときよりも恐ろしく感じ、慶喜がいうような執り成し方をせず、烈公の言ったことをそのまま復命したために問題を発生させた拙さ、才のなさに、我ながら情けなくなり、背中に汗が流れ出して返事どころではなくなりました。

のちに両人からこの話を聞いた人々は、慶喜の孝義明敏な言行に舌を巻き、驚き入って感心したそうです。

この後、慶喜は堀田老中にも伝来作の鞍一口を贈って老公のことを頼み、「これは古びているが、乗り心地よい」とおっしゃったので、堀田もかたじけないと喜び、「私も腹を切ることになると思っていましたが、お執り成しによって無事にすみました」と言って慶喜の明敏をたたえたとあります。 

慶喜が贈った唐織の能装束というのは、金糸・銀糸・色糸をふんだんに使い立体的な模様を織り出した、能装束の中で最も豪華なものです。(能楽協会ホームページ

能楽は江戸時代においては大名の基礎教養のひとつであり、見るだけでなく自分でも演じることができないと交際に支障をきたすほどでした。

しかし幕末の騒然たる世情では大名たちに能を楽しむ余裕はなくなり、能衣装も使われることがなくなります。

慶喜は無用となった能衣装を取りだして父親の古くさい主張のたとえにし、そのままでは役に立たないが転用すれば使えるところもあるから、配慮してもらいたいと訴えたのです。

当事者である川路・永井の両人だけでなく、岩瀬・井上・土岐など外国との交渉に関係する人物を招いたのも、関係者全員に理解してもらうためでしょう。

川路聖謨と永井尚志はともに優秀な人物としてよく知られていますが、いずれも慶喜より年長で、川路は享和元年(1801)生まれ、永井は文化13年(1816)生まれです。

これに対し慶喜は天保8年(1837)年生まれですから当時20才(数え年)、それが自分よりもはるかに経験豊富な幕府官僚におのれの拙さ、才のなさを自覚させて、我ながら情けないという気持ちにさせるほどに弁舌が巧みだったのです。

この頭脳に胆力が加われば卓越したリーダーになったのでしょうが、残念ながら天は二物を与えませんでした。

周延『千代田の大奥 御能楽屋』(国立国会図書館デジタルコレクション)


斉彬、一橋治済の前で能を舞う

余談ですが、唐織能衣装の持ち主だった儀同殿こと一橋治済の孫娘英姫(ふさひめ)は島津斉彬の正室です。

以前に「暴れ隠居の横綱」のところでも触れましたが、治済は斉彬の曾祖父重豪と親しく、重豪のいた薩摩藩の高輪屋敷をたびたび訪れています。

島津斉彬年譜の文政5年(1822)9月に、次のような記述がありました。(原文はこちらの13頁)

同月十四日、一橋大納言(治済:原注)殿芝の藩邸に賁臨(ひりん:訪問の敬称)、種々嚮応せられ、殊に散楽を催さるる、忠方公も自ら芦刈を舞ひ玉う
【「一七 島津斉彬年譜」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】

散楽とは能楽のことで、芦刈は曲目です。

忠方というのは斉彬が元服したのちの名前で、その後将軍家斉(英姫の伯父)から「斉」の字を拝領して斉彬と改名します。

斉彬は実務家タイプなので遊び事は好まなかったのですが、大名の世子(当時14歳)ですから能はきちんと稽古していたようです。

これは慶喜が川路たちに能衣装を下げ渡した安政3年(1856)より34年前の出来事になります。

必需品だった能衣装が無用の品になってしまう……、わずか30年ほどで大名の生活が激変したことがわかります。



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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