徳川慶喜の弁舌(1/2)

水戸家から一橋家に

 前回は慶喜が小心者だったために鳥羽伏見の戦いが起き、幕府の滅亡につながってしまったという話をしました。

しかし、彼を小心者だと批判する人たちも一致して認めていることがもうひとつあります。

それは「頭がずば抜けてよい」という評価です。

最後の将軍となった慶喜は将軍に最も近い親戚である御三家のひとつ水戸家の出身で、父親は水戸藩第9代藩主の斉昭(烈公)です。

慶喜は斉昭の七男として生まれ、11歳のときに御三卿(8代将軍吉宗の子孫を祖とし、御三家同様に将軍後継者となれる家)一橋家の養子となりますが、この養子縁組については時の将軍家慶の強い希望があったとされています。

というのも、父斉昭が慶喜(幼名は七郎麿)の才能を高く評価しているということが、広く知れ渡っていたからです。

家慶は息子家祥(いえさち:のちの13代将軍家定)が病弱で、かつ家祥以外の男子がみな早逝していたことから、慶喜を水戸家の部屋住みではなく自分の父親(11代将軍家斉)の実家である一橋家の当主にして将軍候補者※に加えました。

※御三家といっても将軍を出せるのは尾張家と紀伊家だけで、なぜか水戸家は除外されています。

慶喜は家慶将軍が期待したとおり極めて優秀な少年で、たとえばこんなエピソードがあります。

それは嘉永6年(1853)にペリーの持参したアメリカ大統領国書について、幕府が諸大名や幕臣にひろく意見を求めたときのことです。

当時17歳の慶喜も一橋家の当主として建白書を出すのですが、原稿を家臣に書かせたところ和漢の故事を引用して堂々たる文章のものが届きました。

一読した慶喜は「これは17歳の自分には似つかわしくない」として、ごく簡単なものに書き改めました。

書き直した建白書は、アメリカの要求を拒絶して防衛体制を厳重にするという、ありふれた内容です。

このときの慶喜について、日本近代政治史にくわしい歴史学者の松浦玲氏はこう書いています。

内容で独自の見識を打ち出すのは、まだ無理である。
しかし、近臣の書いてきた建白書が17歳の自分に似つかわしくないからと改めるだけの判断力は、すでにあった。
ボンクラ殿様ではない。

【松浦玲『徳川慶喜 増補版』中公新書】

テレビで国会中継を見ていると、何も考えずに官僚の書いた原稿をそのまま棒読みする大臣ばかりですが、現在なら高校1年生にあたる年齢の慶喜は、令和の大臣連中より優秀でした。

七郎麿時代の徳川慶喜(『幕末・明治・大正回顧八十年史』)


烈公、相談に来た幕臣に激怒

明治26年(1893)の『朝野新聞』に「慶喜公と烈公の舌戦」というタイトルで、慶喜と実父水戸斉昭をめぐるエピソードが掲載されたことがあります。

原文は言い回しが古く内容も込み入っているのですが、概略は以下のようになります。【原文は加藤貴校注『徳川制度(下)』岩波文庫に収録】

安政3年(1856)7月にアメリカ駐日総領事として来航したハリスは、翌年10月江戸城に登城して将軍家定にピアース大統領の国書を提出、老中首座堀田正睦に通商条約締結を訴えました。

堀田は各大名の意見を聞いた上で通商を決意し、年も押しつまった12月29日に海防掛の川路聖謨と永井尚志を水戸家につかわしました。

強硬に攘夷を主張している前藩主斉昭に状況を説明し、意見を求めるためです。

二人に面会した斉昭は、いきなり

「(老中でもない)両人がなにゆえの使いだ、そもそも備中守(堀田)が無礼だ、不行届千万だ」

「何を躊躇しているのか、この上は使節ハリスを討ち、備中・伊賀(老中松平忠固)は切腹して申し訳せよ」

と激怒し、状況が変化しているという川路の弁解も無視して

「形勢が変わったといっても世界中が束になって攻めてくるというのではあるまい、

もしそうだとしても、そのときは自分が討って出て夷狄に一泡吹かせてやる。

先日来、アメリカ行きのこと、大坂城を予に任せること、百万両のこと、蝦夷地のことなど、こちらの提案には回答しないくせに、相談などとは奇怪千万、言語道断のふるまいだ」

などと一方的にまくし立てました。

困った川路は同席している藩主慶篤(よしあつ:斉昭の長男)に取りなしを頼みますが、気の弱い慶篤は黙ったままです。

しかたがないので川路が、

「これからは将軍の意向を伺いながら、老中が物事を進めていくこととなりますが、その際にご意見はおありですか」

と問いかけると、斉昭が

「それはこっちの知ったことではない、勝手にせい」

と言ったので、それを回答として引き下がり、斉昭とのやりとりをそのまま堀田に報告しました。


慶喜、斉昭を論破

報告を受けた堀田は、荒れる斉昭への取りなしを頼もうと、翌正月元旦に新年の拝賀で登城した一橋慶喜に事情を説明します。

堀田から斉昭の言動を聞いた慶喜は、

「それはけしからぬことで、(川路・永井の)両人もさぞ迷惑したことでしょう、すべて私に任せてください、よく説明して老父のひがみ心をなだめます、無礼の罪は許してください」

と謝り、川路・永井を呼んで再度当日の様子を確認しました。

つぎの日、慶喜は年賀と称して斉昭を訪問し、話題をそらして立ち去ろうとする斉昭の着物の裾をつかんで引き止め、姿勢を正して話し出しました。

「尊皇攘夷は父上が20年以上前から主張していることですから、それが悪いと言っているのではありません。

状況が大きく変化したとはいっても、いまさら主義主張を変えたくないとお思いでしょうから開国派に賛同してくださいとも申しません。

どこまでも父上の正論を押し立てられることについては、慶喜もそう願いたいと思います。

しかし、川路・永井の両人が相談にきたときに自分の主張だけをまくし立てては、相手はそうですかと恐れ入ることしかできません。

意見を求めてきた者をおどかすというのは相談の趣旨にかなわないばかりか、以前の要求をまた持ち出すとはどういうおつもりですか。

世間では父上はもめ事を起こすのが好きだと思われており、老中など幕閣のなかでもそのように見られている疑いがないとは言えません。

そもそも幕府に対して、自分がアメリカに行って交渉するとか、大坂城を借り100万両を出してもらって大砲と大艦を造るとか、外国の侵略を防ぐため蝦夷地を自分の領地にしたいとか要求しているのも、父上を敵視する者から見れば反乱の陰謀があると受け止められます。

いまは幕府に忠誠を尽す姿勢を示すことが、天下のため、水戸家のため、御身のためだと憂い思うからこのように申上げているのです」

と説いて、斉昭に「私が間違っていた」と言わせました。

斉昭が非を認めたので、慶喜はすかさず

「過ちだと気づかれたのであれば、私が堀田たちに取りなしておきますので、『この前は少し間違えたことがあるので、委細は刑部卿(慶喜の官名)から説明する』と一筆書いてください」

と言って、斉昭に委任状を欠かせました。

これで「勝負あった」です。

慶喜は父が間違った対応をしたと思いましたが、斉昭との面談ではまず父の考えを肯定することから始めています。

そうやって斉昭の感情をクールダウンさせた上で、相談に来た相手にどう対応すべきだったかを考えさせ、世間の目や水戸家の利害を順々に説いています。

このとき慶喜は数え年で22歳、9月生まれですから満年齢だとまだ20歳ですが、老練な父斉昭をやり込めるほどの論理性と弁舌を身につけていました。

しかし、本当に頭が良いなと思わせるのは斉昭をやり込めた手際ではなく、斉昭との話を堀田たちに伝えたときです。

それは次回に。







幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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