徳川慶喜はリーダーにふさわしいか?
トップの仕事は決断と責任を取ること
世界最大の自動車メーカートヨタの豊田章男会長は「トップリーダーの心得を教えてほしい」と聞かれて、「経営者としてやってきたことは2つだけです。決断と責任を取ること。この2つこそが、経営者の仕事だと思ってやってきました」と答えています。【トヨタイムズ2024.01.23 『「決断と責任を取るのが私の仕事」 豊田章男がリーダー200名に伝えたこと』】
「決断する」「責任を取る」いずれも口で言うのはたやすいですが、実行するのは簡単ではありません。
決めることも責任を取ることも、どちらも強烈なプレッシャーがかかります。
優柔不断な人や小心者は「まだ判断材料が足りない」「よく検討せねばならない」などと言って問題を先送りし、せっかくの機会を逃してしまいます。
さらに一度決めたことでも反対意見にあうとフラフラして、前言をひるがえしてしまったりします。(これは一般論で、衆議院を通過させた予算案を参議院でひっくり返した首相の話ではありません。念のため)
以前『家老の条件は?』で、島津斉彬が分家で佐土原藩主の島津忠寛に「(家老が)文弱にならぬよう武事をやらせよ」と語った話をご紹介しましたが、これは武道の修行によって胆がすわり物事に動じなくなる、言いかえれば「胆力がつく」からです。
こうと決めたらブレずにそれをつらぬく、失敗したらいさぎよく責任を取る、そんな上司であれば部下は安心してついて行けます。
逆に「胆力がない」言いかえれば「肝っ玉が小さい」ので、すぐブレてしまう人物は困りものです。
じつは、最後の将軍徳川慶喜がそうでした。
将軍時代の徳川慶喜(『幕末・明治・大正回顧八十年史』)
決断できない将軍
文久の改革で将軍後見職となった慶喜を補佐してきた松平春嶽は、明治になってから幕末の状況を回想した著書『逸事史補』の中で、慶喜についてこう語っています。(読みやすくするため誤字を修正して、一部漢字を仮名にしています)
慶喜公はすこぶる有名にして、才知勝れ給いて、実に感佩(かんぱい)するの人なれど、世間にてはこれをしる者はなけれども、至って肝の小なる性質なり。
それゆえ胆力小なるが故に、決断する事ならず。
水戸烈公右同断にして、父の性質を受けたるものと存られ候。これは世人のしらざる所なり。【「江戸城の明け渡しと慶喜公と勝安房」松平慶永『逸事史補』人物往来社幕末維新史料叢書4】
要するに、「頭はずば抜けてよいが、小心者なので決断できない」ということです。
ちょっと面白いのが、慶喜の実父である水戸斉昭(烈公)もじつは小心者だったという指摘です。
斉昭は攘夷論者の大ボスだったので豪胆な人物かと思いましたが、そうではなかったようです。
斉昭と慶喜の両者に親しく接してきた春嶽の言葉ですから、間違いはないでしょう。
この性格が致命傷となってしまったのが鳥羽伏見の戦いでした。
慶応3年(1867)10月に大政奉還を行った慶喜は、薩長主導の朝廷に反発する旗本やそれまで京都の治安維持を担っていた会津・桑名藩士たちを引き連れて京都を離れ、大坂城に移りました。
いきなり幕府から政権をゆずられた朝廷(と薩長両藩)ですが、朝廷には政権担当能力などありませんし、薩長も現在の県政レベルの能力しか持っていません。
つまり慶喜は大坂で待っていれば、困り果てた朝廷が頭を下げてきて、国政に復帰できるはずでした。
ところが12月28日に「江戸で庄内藩などが薩摩藩邸を焼き払った」という情報が届き、不満が溜まっていた会津・桑名藩士や旗本たちは「江戸に続け」と一気に開戦ムードになりました。
彼らの勢いに押された慶喜は、「討薩の表」を掲げて徳川軍が京都に乗り込むのを認めてしまいます。
その後の展開はご存じのとおりで、徳川軍は3倍の兵力を有しながら薩長に大敗し、賊軍となった慶喜は部下を放置して江戸に逃げ帰ります。
徳川の天下はもはや駄目だ
明治37年の史談会で、旧上ノ山藩士の増戸武兵衛が、慶応3年5月に大坂から戻ったばかりの同僚金子与三郎から聞いた話を披露していますが、徳川方の敗北を予見するような内容です。(読みやすくするため一部漢字を仮名にし、カギ括弧を加えています)
その時私は久し振りで面会ですから第一番に上方の形勢如何と問いますると、「昨年来大坂に居て京都にも度々参り長州にも探偵を差し出し天下の形勢を段々と伺い種々心配も致したなれども、徳川の天下は最早駄目だ」
その訳はこれ以下遠慮すべき詞の様でありますけれども、実際の談話に付き忌憚なく申します、
「第一慶喜公は馬鹿な御方ではないが何分にも臆病でありて、とても武家の大将たる器量がない。第二に力と頼む会津も忠義は忠義であるけれども、何分にも彼藩の士風が狭隘であって猜疑心が甚だ深い、それが為にせっかく徳川に心を寄せ居たる大藩諸侯も皆追々に離るる様になった」
【増戸武兵衛「上ノ山藩増戸君維新前後の実歴及清川八郎に関する事実附八節」『史談会速記録 第144輯』 太字はブログ主】
慶喜が利口であることは認めながら、臆病者だから武家の大将はつとまらないと看破しています。
松平春嶽は「世間にてはこれをしる者はなけれども」と書いていましたが、金子はどこかから聞きつけて知っていました。
さらに、慶喜をサポートする会津藩が狭量で疑り深いから、徳川を支援する藩は減るばかりだというのです。
ちなみに金子は上ノ山藩の指揮官として庄内藩とともに12月25日の薩摩藩邸焼き討ちに加わり、その時に受けた傷で翌日死亡しています。
ブレる慶喜、ブレない久光
日本にくわしいイギリス人のディキンズは、鳥羽伏見の戦いを振り返ってこう述べています。
もし新しい将軍が決断と有能の人物であり、有能な重臣が補佐していたならば、新しい年とともに行われた革命は、おそらくは流血を見ることもなく、日本の真の進歩を促進するどころか妨げるようになったあの暴力的で性急な変革もなく、うまく成し遂げられたであろう。
しかし、そのような人物は存在せず、機会は去って二度と戻らなかった。
日本は、他の国々の場合と同じ運命から免れることができず、騒然たる内戦の中に、若返りの時代を迎えなければならなかった。【F.V.ディキンズ 高梨健吉訳『パークス伝 日本駐在の日々』平凡社東洋文庫】
決断できる将軍を有能な重臣がサポートしていれば戦争にならず、流血は避けられたとの見解です。
このように感じたのはディキンズだけではありません。
大政奉還の提案者だった土佐藩の後藤象二郎も、明治21年に島津家事蹟調査で自宅を訪れた市来四郎と寺師宗徳にこう語っていました。(読みやすくするため、一部漢字を仮名に変えて、句読点を補っています)
同公(慶喜)元来明敏の方なるも、やや識見に暗きの嫌いあり。
たとえ朝廷の処置変更あるにせよ伏見の戦を為すは甚だ拙劣なり、戦を為さずして尽すべき時なり。
戦を為す以上は己に黒白を分たれたるごときものにて如何ともなすべからず、誠に惜しむべきことなりき。予等思うに久光公なれば彼の大政返上はまことに見事に終局を見しなるべしと思えり。
同公は始終貫通するの御決心固かりしなり、かの伏見寺田屋一件の処置を見て知るべし。
慶喜公にして、会津その他侯伯の横議を制し得られざりしは惜しむべきことなり。
【「島津家事蹟訪問録 政権返上事項故伯爵後藤象二郎君談話」『史談会速記録 第170輯』】
後藤は、朝廷が辞官納地を迫ったからといっても、慶喜が会津などの意見を制止できず鳥羽伏見の戦いになったのは「拙劣なり」と批判しています。
興味深いのは、「始終貫通するの御決心固かりし(=意思がブレない)」久光ならあのようなことにはならなかったと語っていることです。
後藤は久光がブレない証拠として寺田屋事件を挙げています。
これは朝廷から京の治安維持を頼まれた久光が部下のテロ行為(関白・所司代暗殺)を防ぐために有馬新七たち藩内過激派を上意討ちにした事件で、一旦約束した以上は部下といえど容赦しない厳しい姿勢を評価したのです。
リーダーは組織の運命を左右します。
慶喜は優秀でしたが小心者だったために反薩長の意見に流されて鳥羽伏見の戦いとなり、結果として沢山の命が失われました。
しかし決断ということでは失敗したものの、負けた責任はきちんととっています。
国家のリーダーとして筋を通したということでしょう。(現存する特定の人物を批難するものではありません、念のため)
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