家老の条件は?



先代藩主が選んだ家老たちはみな無能だった

以前のブログで、斉彬が「家老など大身の者に、使える者が一人もいない」となげいた話を紹介しました。

斉彬は父親の斉興がいつまでも藩主の座をゆずらないことから、老中首座の阿部正弘の力を借りて、斉興をむりやり隠居に追い込んでいます。

さらには藩主就任前に「お遊羅騒動」という御家騒動もあったことから、これ以上の混乱をさけるためと思われますが、家老人事にはほとんど手を付けていません。

ワイロを受取ったことが判明した末川近江を安政3年に免職・謹慎にしただけです。【「末川近江等黜斥セラレシ事」『島津斉彬言行録』巻之四】

この家老たちは斉彬が藩主になっても相変わらず斉興の顔色ばかりうかがっていたようで、旧薩摩藩士で歴史家の重野安繹がこう語っています。

其の頃藩邸では、家老共が順聖公(斉彬)の御実父高輪の御隠居様(斉興)に取入って、順聖公が家督をいたされて居ても、その命令をば悉(ことごと)くは奉じない。
家老の中、島津某(豊後)というのが筆頭であったが、西郷はそれが奸物だと云って悉く憎んだ。
併しながら順聖公は大度量の君公であるから、家老共が自分に逆らっても、高輪御隠居様の御機嫌を損じないように、家老共を使われて居ったのです。

其の時西郷は家老の自侭のことや悪いことを順聖公に申上げたけれども、お聞入れがない。

人間は悉く小人を去る訳には往かない。小人でも時に依って役にも立つものであるから、一概に斥けるものでないと云って戒められた。

其事は西郷が話して居った。

【「西郷南洲逸話」重野安繹『重野博士史学論文集 下巻』】

(カタカナなので少し読みにくくなりますが、同じ史料が『斉彬公史料第三巻』の620頁にもあります)


斉彬は藩政を行なうにあたって、現場に直接指示を出すことが多かったようにみえます。

会社にたとえれば、先代社長が使っていた役員がみなボンクラなので、新社長は彼らをとばして課長に直接指示を出していたようなものです。

斉彬が、「島津豊後をクビにすべき」という西郷の進言を受け入れなかったのは、そうせずともやっていける自信があったからでしょう。

(ついでに言うと、斉興死後に実権をにぎった久光はこの豊後をすぐ左遷しました)


佐土原藩の家老は用人レベル

斉彬自身は家老にめぐまれなかったのですが、本来の家老のあり方についてどう考えていたのか、支藩である佐土原藩主の島津忠寛が斉彬から言われた話がのこっています。

(分かりやすくするため読み下し文にしてあります。原文はこちらの163頁)

ある時の(斉彬の)仰せに、佐土原の家老どもは気のききたるものあれども、少しも家老と云う様な気性あるもの無きように見受けたり。国(薩摩)の側役や用人くらいのものならん。
其の心得を以って、もっぱら武事を引き進め、文弱に流れざる様にせば、随って正直に忠臣も出来るものなり。
佐土原は三ヶ国(薩摩・大隅・日向)に比ぶれば文学(学問)は開けたるようあれど、文弱なり。

鹿児島は無学のもの多けれども、万一乱世にならば、忠義を尽すもの沢山あるべしとおもえり。是れ全く正直より出る訳なり。

【「一三四 島津忠寛君親話」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

「佐土原藩の家老は薩摩の用人や側役くらい」とは、また会社にたとえると「佐土原の取締役は薩摩だと部長か課長レベル」ということです。

斉彬の言いたいことは、「佐土原の家老は頭でっかちで胆力がない。薩摩人は無学だがゴマカシをしないので、いざとなれば力を発揮する」ということでしょう。

「もっぱら武事を引き進め」とは「もっと武道や軍事をやらせろ」です。

武道と胆力の関係について、薩摩の武士たちが修行した示現流では、稽古をかさねて「その腰が定まれば、腹もまた極まり、度胸もおのずから座る」とされています。

当時の武道の修行にはげめば、「胆力」つまり「強いメンタル」が身につくということです。

揚州周延「千代田之御表 武術上覧」
国立国会図書館デジタルコレクション

家老という職務には、決定権とそれにともなう責任があります。

責任を持ってものごとを決めるというのはこわいことです、というのは自分の判断がまちがっていたら大損害が生じることもあるからです。

それが戦の場であれば多くの部下を死なせることに直結します。

決断を先送りにしたいと思って、もっと情報をあつめてから検討しようと言いたくなります。

しかしどこかで決めなければいけない、それが責任者の役割です。

斉彬は佐土原藩の家老が、小才はあるが度胸がないと見抜いたのでしょう。


家老は器量で選ぶ

斉彬は安政元年(1854)にだした訓令の中で、つぎのように述べています。

「元来学問の本意は、義理を明らかにして、心術を正し、己を治め、人を治める器量を養い、君父に対して忠孝を尽し、全体を汚さざる義、第一の要務と存じ候」
【「四〇 両番頭ヘ学問ノ要旨其他訓令」『鹿児島県史料 斉彬公史料第二巻』】 

(原文はこちらの72頁)

この中に書かれている「人を治める器量」が家老に求められているのですが、これに関して分りやすいエピソードがあったのでご紹介します。

斉彬の5代前の薩摩藩主で、名君になると期待されながら22歳の若さで亡くなった、宗信の逸話です。

宗信の時代、家老の一人死去し、其の補欠のため他の家老を召して適任者を問われたが、皆其の場にて答うることが出来ず退いて考慮尽したいと退出した。
鎌田典膳は病気のため其の日出仕せず他日出仕したから、宗信は鎌田に家老の適任者を尋ねた。
鎌田は即座に何某(なにがし)こそ適任であると答えた。

宗信問うて曰(いわく)、汝は何の見る所あって適任であると言うかと。

鎌田答えて曰、何某は如何なる職務も裁決水の流るるが如く能く弁ずと。

宗信曰、予の問う所は“器量”である、汝の言う所は“働き”である。働きを以て人を採用するは有司(ゆうし=役人)のことにて家老の業ではない。

家老は万人の上に立ち、一国の政を行う職なれば万人の信服する程の器量ならでは其の任に堪えざるべし。

【林吉彦『薩藩の教育と財政並軍備』】

宗信は鎌田に、仕事ができることで抜擢するのは「有司」つまり会社でいえば職員の話で、「家老」という役員クラスになるためは人々が心服する器量が必要だとさとしました。

家老は才覚より人格で選ぶという宗信の考えは、斉彬に引き継がれていると林吉彦氏は書いています。

現代の名経営者にも同様の考えを持っていた人がいます。

鹿児島県出身で京セラの創業者稲盛和夫さんは、2016年のインタビューでこのように語っていました。

今の日本企業は才覚のある人をリーダーとして重用します。私はリーダーを選ぶとき、能力ではなく人間性や人格で選びます。能力に多少の問題があっても人格のある人は努力をして成長する。そういう人をリーダーに選んでこなかったことが、問題を引き起こしているのではないか。
【マネー現代 「稲盛和夫が「『愚かな部下』を引き連れて敵地を攻めよ」と断言した理由 学歴や能力より大切なことがある」】

(2022年9月1日の記事、全体はこちら

これはそのころ東芝の粉飾決算や三菱自動車のデータ改竄など名門企業で不祥事が相次いでいたので、記者からなぜこのようなことが起こるのかとたずねられたときの回答です。

リーダーに求められるのは人格。

昔も今もそれは変わらないようです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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