旗本は二束三文?
慶喜の過信
鳥羽伏見の敗戦で江戸城に逃げ帰って、「あの旗本の家来を使って、薩長の武士に向って戦さが出来るか」と語った慶喜ですが、開戦前はそう思っていなかったようです。
幕府の中枢にいた福井藩主松平春嶽(慶永)が明治になってから著した回想録『逸事史補』には、このような記述があります。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
慶喜公、決して兵端を開く存じはこれなく候とはいえど、どうも、いささか疑われざる所あり。
慶喜公はすこぶる調練好きにて、昭徳院様(14代将軍家茂)以来兵隊も調練も十分出来、また藤堂・井伊等も皆兵隊もあり皆練熟の兵の由。
徳川家にて今頼る所の兵隊は十八大隊これある由なり。いっぺん軍(いくさ)をなされたらば、必ず勝利なるべしとお考えのご様子あり。
薩長土の兵は、皆練熟はせずとの軽蔑のご様子もあり。
【「奉還後に於ける慶喜公の心境」松平慶永『逸事史補』人物往来社幕末維新史料叢書4】
明治になってから慶喜は「戦争をする気はなかった」と語りましたが、春嶽はその言葉を疑っています。
慶喜は、幕府には十分な調練を受けた歩兵隊18大隊(1大隊は420人、計7,560人)がいて、さらに幕府側の藤堂(津藩)や井伊(彦根藩)の兵隊もみな「練熟の兵」なので、戦争になればかならず勝つと考えている様子だったと、春嶽は書いています。
さらに、薩長の兵はその半分でしかも練熟していないと軽蔑していたようだ、とも書いていますから、慶喜は薩長との戦いにかなり自信があったようです。
しかし慶喜の見方はまちがっていました。
徳川の歩兵隊が「十分な訓練を受けた」という部分はそのとおりですが、薩長兵が「練熟していない」は大まちがいです。
薩摩は薩英戦争で英国海軍と、長州は下関戦争で米英仏蘭の4カ国海軍とそれぞれ戦っており、薩長兵の多くは最新の武器を装備した外国軍隊との実戦経験があります。
一方、幕府歩兵隊のほとんどは長州再征以後に集められ、江戸で訓練をうけた者たちでした。
基本動作はできますが、実戦での対応は未経験です。
つまり適切な指示を出せる指揮官がいなければ、戦場の変化に即応した行動をとることができない兵士集団でした。
旧幕府歩兵隊調練之図(風俗画報第127号挿絵)
旗本・御家人は役立たずのひ弱な都会人
じつは旧幕府軍の弱点は「兵隊」ではなく、その指揮をとる「士官」つまり旗本たちにありました。
旧桑名藩士で鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍として参戦した小山正武が、明治36年の史談会でこのように語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
当時、幕府歩兵の士官というもの、その中に人物なきにあらずといえども、しかも有為完全なる人物は極少数に過ぎずして、その多数なる士官は単に技術的怜悧的小才子の類多きに居り、真成軍人的修養素養精神に富める者は極めて乏しきことである。
然るゆえんは他なし、幕府当時の兵制たるその固有の旗本士御家人の大多数は都人士風華奢驕惰にして、これを根底より改良することはなはだ難し。
【小山正武「明治維新の成立並日本の新旧過渡時代附二十節」『史談会速記録 第125輯』】
幕府歩兵の士官とは、小隊(42人)・中隊(5小隊 210人)・大隊(2中隊 420人)の隊長クラスで、ある程度の訓練を受けた旗本が任命されます。
軍隊では兵隊はすべて士官の命令によって行動しますから、士官の出来不出来で勝敗が決まると言えましょう。
小山は、幕府歩兵隊の士官には有為完全な人物はごく少数で、大多数は「技術的怜悧的小才子の類」つまり口先だけの人間で軍人にふさわしい者は極めて乏しい、その原因は旗本・御家人が都会の遊び人になっているからで、訓練で彼らを根底からたたき直すのは無理だろうと嘆いています。
これは鳥羽伏見の戦いの1年半前となる慶応2年(1866)時点の回想ですが、その後も改善されなかったから、明治36年にこう語ったのでしょう。
また幕府の勘定方役人で開戦時に糧食担当として伏見奉行所にいた坂本柳佐と、史談会幹事の寺師宗徳のこういうやりとりもあります。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
(寺師)幕府のいわゆるお旗本なんぞという者は、いっこう役に立たず仕様がなかったですか。
(坂本)はい、先ず役に立った者は少ないです。
【坂本柳佐「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節」『史談会速記録 第23輯』】
同じ旗本でありながら、ずいぶんと情け容赦のない回答です。
明治32年の史談会では、幕府の御家人で隠密を務めていた渡部當中もこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
早く申せば、幕府の供連れなどという者は意気地のない者でございます。
幕府の家来という者は誠に二束三文でございます。
【渡部當中「後藤三右衛門行跡附二十七節」『史談会速記録 第83輯』】
最後に、江戸の治安維持を担当していた旧庄内藩士の俣野時中が、明治27年の史談会で語った話をご紹介します。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
そもそも庄内藩で江戸鎮撫の命を受けまして、区域を分け或いは下谷方面とか、日本橋方面とかに人数を分けて、ほとんど昼夜絶え間なく巡廻しておりました。
ちょうど今日の巡査のような組織によりて、取り締りをしておった。
当時なかなか幕府の与力同心とかいうような腰抜け者では取り締りが出来なかった。【俣野時中「三田薩州邸焼討の事実附十節」『史談会速記録 第31輯』】
与力・同心は町奉行所の役人で、旗本ではなく御家人のポストですが、俣野はひとくくりにして「腰抜け者」で片付けています。
会津藩が治安維持を担当した京都と異なり、江戸には幕府兵である旗本・御家人がたくさんいるのになぜ庄内藩に治安維持を委ねたのか、その理由は「腰抜け者では取り締りが出来なかった」からでした。
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