幕府歩兵はがんばった
歩兵隊の評価は高い
鳥羽伏見の戦いは射程距離500mのライフル銃(ミニエー銃、エンフィールド銃)と同100mの旧式銃(火縄銃、ゲベール銃)との戦いでもありました。
3m以内の接近戦でしか使えない刀・槍は問題外です。
薩長兵は全員がライフル銃を装備していましたが、旧幕府軍の武器はバラバラでした。
旧幕府軍の中では、全員がライフル銃(一説には最新の後装式もあったらしい)を装備し、フランス士官から近代戦の訓練も受けていた歩兵隊だけが、薩長と対等に戦える戦力でした。
薩摩兵1人は幕府兵10人分だと幕府兵をバカにしていた西郷隆盛も、歩兵隊の力量だけは認めており、こう語っていたようです。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
ひ弱いといえども、幕府には歩兵がある。
あの歩兵は相当の教育をした者だから、歩兵は勘定に入れたが、旗本は眼中に置かなかった。
【寺師宗徳「鹿児島藩門閥に関する件」『史談会速記録 第239輯』】
じっさい鳥羽伏見の戦いにおける幕府歩兵隊(伝習歩兵隊)兵士たちの奮戦ぶりは高く評価されています。
前にも紹介した、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の糧食を担当していた旗本の坂本柳佐は、明治27年の史談会でこう語っていました。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
そのとき(伏見奉行所の戦い)に徳川家の伝習隊というのが、およそ半大隊(210人)もおりました。
その半大隊の伝習歩兵だけが役に立ったと思います。
その他は会津藩にいたしても、桑名藩にいたしても、または見廻組におきましても、鉄砲が少なく、ためにさほどの働きはござりません。ことにこの見廻組というのは、鉄砲は持っておりましたが無きが如くといって可なり、でありました。
【坂本柳佐「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節」『史談会速記録 第23輯』】
歩兵たちのほとんどは武士階級ではありませんでした。
始まりは兵賦令で集められた旗本領地の住民でしたが、幕長戦争のあと優秀な者以外は解雇され、再募集して選抜された者たちです。(野口武彦『幕府歩兵隊』中公新書による)
当時の江戸は文久の改革で大名・旗本家の人員整理が行なわれた後で、中間や小者として奉公していた者たちが大量に失業していました。
彼らが幕府歩兵に応募して、訓練を受け、鳥羽伏見の戦線で戦ったのです。
銃撃する幕府歩兵(『戊辰戦記絵巻』部分)
旗本にはフランス士官もあきれる
フランス士官によって訓練され、ライフル銃を装備した歩兵隊は、戦力としてすぐれていたものの、指揮官がダメだったためにその力を十分に発揮できませんでした。
自衛隊OBで戦史研究者の金子常規氏は、こう書いています。
幕軍敗北の因の一つは、幕軍指導部の視野の狭小なこと、さらにまた、戦を甘く見た上級指揮官の軍略の失敗に帰せざるを得ない。
戦はまず勝たねばならない。
彼らはすでに日本伝来の兵法が無効になっていることを悟らなかった。
「武器さえ西洋の新式をとり入れれば戦術は日本兵法でもよい」として、シャノワンの指摘したように教導を受けなかった彼らは、その驕慢の報いを主家存亡の場で受けたのである。
【「鳥羽伏見戦の軍事的総括」金子常規『図解詳説 幕末・戊辰戦争』中公文庫】
シャノワンというのは、歩兵隊の訓練指導を行なったフランス陸軍の参謀大尉です。
彼は兵士と士官の訓練を指導したのち、専門的意見を建白書として慶喜に提出しました。
そこでは部隊指揮官となる旗本について、このように述べています。
日本の陸軍士官中教導を得たるもの更に一人もなし。
是皆外国の火器を見知るというのみなり。
其内余り年齢多きもの亦少なからず。
【「幕府、シャノワン大尉を招く」金子上掲書】
旗本たちは新式の兵器を知ることだけで満足し、それをどのように使いこなすのかについては学ぼうとしなかったので、「教導を得たるもの更に一人もなし」となったようです。
また、受講者の中には実戦に適さない老人も少なくなかったと苦言を呈しています。
旗本たちは、シャノワンの指導を実戦のための訓練ではなく、教養講座のように考えていたのかも知れません。
その結果が鳥羽伏見のみじめな敗北になったと、金子氏は述べています。
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