久光、朝廷に米1万石を献上(2/2)
1万石献米をついに認めさせる
前回は島津久光の厳命をうけた本田親雄が近衛家を動かそうと必死の交渉を行ない、ついに孝明天皇の勅許を得たというところまでお話しました。
当時朝廷の下級官吏だった沢渡広孝が、明治26年の史談会でこの献米について語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
文久二年四月に島津久光公、その時和泉と申します、京都へお出になりまして、三郎という名にお替えになって、関東へ御用で大原卿のお供を致して、関東の御用を済ませられまして京都にお帰りになりました。
そうして国へお帰りになりまする際に、京都はお手薄であるから一万石献納をば致されたいという事で、当時の留守居本田弥右衛門(今親雄という:原注)という人がその事を承っておりまして、京都へそういう角立った物を御献納になりますのは例も一向ござりませず、又京都でもその頃は斟酌(=幕府への気がね)がござりましたから、お請けになりませぬでござりました。
なれども三郎君が京都を辞して帰りまする際に書付を残して置いて、願い出せということで、本田氏が力を尽くして近衛家に依って、近衛家のお取次ぎで奏聞になりまして、一万石献納になりましたことでござります。【沢渡広孝「島津久光公朝廷に米一万石を献納ありし事実附十三節」『史談会速記録 第13輯』】
久光は文久2年(1862)の卒兵上京時に、名をそれまでの「和泉」から「三郎」に変えています。
これは当時老中だった水野和泉守(水野忠精:ただきよ)と名前がかぶるので、幕府との交渉が始まる前に変えておいたほうがよいという近衛家のアドバイスに従って、島津家初代にちなんだ名に改名したものです。
献米の話に戻ります。
久光の厳命をうけた本田が必死になって請願を続けたことで、幕府の禁忌に触れるのを恐れて取り次ぎを拒んでいた近衛家もついに動き出しました。
そうしてとうとう天皇の勅許を得ることに成功します。
孝明天皇は中納言飛鳥井雅典を近衛家に派遣して、当主忠煕に献米受諾の勅命を伝え、あわせて「本田が待っておるであろうから、早々に通じ遣わせ」と言い添えたそうです。
近衛家からこの孝明天皇の言葉を伝えられた本田は、天皇が自分のことを気にかけてくださっていたと知って涙を流しました。
のちに本田は、「その時のありがたさというものは飛び立つばかりで、これまで嬉しきこと、感ずることの多々あったけれども、その際ほど心肝に徹して感動を覚えたことはいまだかつてない」と寺師に語っています。
孝明天皇の心配りが感じられるエピソードです。
天皇の言葉に感激した本田は、大至急久光に報告した上で、1万石の玄米確保に奔走しました。
大坂では集まらず、下関まで買い付けに
しかし、いかに商都大坂でも短期間に1万石もの米を買い付けるのは困難でした。
前回もご紹介した寺師宗徳が明治31年の史談会で語った話によると、本田の行動はこうでした。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
当時は大坂がいかに繁華といっても数日内に一万石が出来ぬで、下ノ関まで走らせてようやく出来たということでござります。
そこで一万石を集め得ましたから、牛車を以て毎日毎日洛中へ米を運び込んだ。
ところが、幕府の掟に三條通りは牛車は入ることが出来ぬということであった様子でござります。けれども、その禁令もなにもあったものでなく、三條通りをどしどし引込んだということで、その盛況はすこぶる人目をそびやかしたことである。
そうして御所の日和門を開きて紫宸殿の前に一万石を山の如くに積上げたは、実にこれまでないということで、前代未聞なりとて世人も一驚を喫したることで、自分等も彼の様に快きことをしたは今更の様である。
このことは島津家の家史中には一大偉功として特筆して置かねばならぬという話でありました。
【寺師宗徳「本田親雄男島津家より朝廷へ米壱万石献納の事に付尽力せられし事実附十一節」『史談会速記録 第68輯』】
本田が寺師に語ったところによると、いくら大坂でも数日で1万石の米を確保することは無理で、もし強引に集めれば米価が暴騰して大混乱を引き起こすため、同じように米が集積されている下関まで部下を派遣して、全体の3分の2ほどの量を下関から船で送らせたそうです。
これは語られていませんが、大坂の蔵屋敷に集められた米は、小舟に積み替えて京都の入口である伏見まで運んだはずです。
そこから京都への搬入は牛車を使いました。
これも余談ですが、米俵1俵の重さは60kgあり、馬だと1頭で2俵しか運べません。
そこで積載量の大きい牛車を使ったのですが、当時は土の道ですから、重い荷物を積んだ車が通ると深い轍(わだち:車輪の跡)ができてしまいます。
そのため伏見から京都に向かう街道などには牛車用に「車石」という敷石をしいた部分、いわば専用道路が設けられていました。(参考:大津市歴史博物館企画展「車石-江戸時代の街道整備-」)
本論に戻ると、寺師は本田が牛車の通行が禁じられている三条通りにもかまわずに引込んだと語っています。
薩摩藩の札を立てて次々とやってくる牛車の大行列を目前にして、制止できずに立ちすくんでいる幕府役人の姿が目に見えるようです。
そうして、連日牛車に米を満載して、1万石を御所に運び込みました。
日和門を開けてとありますが、これはおそらく紫宸殿の南庭にある日花門のことだと思われます。
薩摩藩の史書『旧邦秘録』には、文久2年(1862)9月23日に4斗入りの「米俵二千五百俵、禁中の大庭に堆積したるは、実に盛なることなりしとぞ、運輸の途次或いは禁内の大庭に畳積(じょうせき)せしを参観の人夥しく、当時京伏坂の説に、古秀吉公が再生すとも、此の如きの盛事を見玉はば、嘆称せらるるならんと唱えたりしとなん」とあります。【「一三四 米一万石ヲ朝廷ヘ献上」『鹿児島県史料 市来四郎史料二』】
大量の米俵を積んだ牛車が続々と御所に向かう様子や、紫宸殿前に米俵がびっしりと積み上げられているのを見て、京都・伏見・大坂の人々は「いにしえの秀吉公が再生したとしても、この様子をみれば感心してほめたたえただろう」と言いあったようです。
旧邦秘録には2,500俵とありますが、4斗(0.4石)俵×2,500俵だと1,000石ですから、1万石全部積んだのなら25,000俵が積上げられたはずです。
ちょっと想像できませんが、さぞや壮観だったことでしょう。
京都御所紫宸殿(2022年11月ブログ主撮影)
下級官人や神社にまで分配
孝明天皇は久光から献納され紫宸殿の前に積上げられた1万石の米俵を、公家という上級職だけでなく末端の官人にまで行き渡るように分配しました。
前述の沢渡がこのように語っています。
その一万石は誠に割合が正しうして御手許に留められず、官人一同に賜って、その一分の若干を私共へも賜ったことでござります。
それが先ず米を諸藩より献上になりました始めでござります。
さらに一部は神社へも配られていました。
茨城県にある鹿島神社(現在の鹿島神宮)宮司の子息だった鹿島則文が、明治28年の史談会で語った話です。
嘉永七年にペルリが参って以来、三十三社へ朝廷から攘夷の御祈祷を仰せ付けられて、鹿島にもお達しで、
文久二年に島津さんから現米(原文のママ)を朝廷へ御上げで、その中一社へ三十石宛て下さるということで、
それを御受取りに親が出ますのでありますが、当職の上京はむずかしい故、私が代理して京都へ参って、その三十石を受取ってござります。
【鹿島則文「鹿島則文君実歴附十二節」『史談会速記録 第60輯』】
ペリー来航時に朝廷から攘夷の祈祷を命じられた神社33社に、1社あたり30石(75俵)の米を分配したそうです。
鹿島則文は宮司である父親に代わって、茨城県から京都まで米を受取りに出向きました。
これも孝明天皇のお人柄を感じさせるエピソードです。
負けじと長州も1万両献納し、あせった幕府は朝廷予算増額に踏みきる
さて、当時薩摩を最大のライバルとしていたのは長州です。
長州は久光が卒兵上京するまでは尊皇攘夷のリーダーを自負していましたが、大原重徳と久光のコンビが江戸で勅命による幕政改革を実現し、さらに生麦事件で天皇の望んでいた攘夷まで(結果的に)実行されたため、すっかりお株を奪われてしまいました。
あせった長州は薩摩に負けじと、朝廷に1万両(米1万石とほぼ同価値、現在の金額になおすと10億円)の献上を願い出ます。
薩摩によって大名から朝廷へ直接献上する前例ができていたのでこれも認められ、文久3年(1863)6月23日に毛利家から朝廷へ1万両を献金しています。
さて、こうなってくると困るのは幕府です。
大名から朝廷にどんどん献金されたのでは、資金を押さえて朝廷をコントロールするという従来の手法が使えなくなります。
幕府は朝廷のスポンサーという立場を維持するために、朝廷経費予算の大幅な増額を行なわざるを得ませんでした。
先ほど紹介した沢渡の談話のつづきです。
その後毛利家からも金を献上でござりまして、その献上物も同じく官人へ配分になりました。
その以前に和宮様御縁組の節に幕府から贈りました物は、これは公卿ばかりで、あまねくには届かぬでござりました。
島津の献納より始めて一般にお分かちになりました。
その後京都がお手薄であるから島津・毛利二家から献上致しました事でありますから、老中その他へ話合がつきて、幕府から年々十五万俵を朝廷に献ぜらるる事になりました。
これも宮以下地下の官人等に分配になりましてござります。
左様致しましてから漸く公卿方以下の者が、教育の学費その他に差支えの無いようになりましたものでござります。
【沢渡広孝「島津久光公朝廷に米一万石を献納ありし事実附十三節」『史談会速記録 第13輯』】
「毛利家からも金を献上」というのは先ほどの1万両のことですが、これも島津家が献上した1万石の米と同様に末端まで分配されたそうです。
それ以前に「和宮様御縁組の節に幕府から贈りました物」は「公卿ばかり」、つまり上級職である公家だけに配分されたと語っていますが、こちらは孝明天皇が指図されたのではなく、幕府の判断です。
菊池寛の『維新戦争物語』には、「公家一同へ、一万五千両の袖の下を使った」とあるので、公家だけに配られた、いわば賄賂のようなものでした。
会社にたとえると、社員全員の生活を考える天皇と、管理職だけをてなずけておけばよいとする幕府、お金の配り方に両者の考え方の違いがよくあらわれていると思います。
朝廷予算を大幅に増やしたしたことについて、前々回「天皇の家計は火の車」では会津藩士の南摩綱紀が、これは京都守護職松平容保の進言によるものだと語っていました。
下級官人だった沢渡は、久光の献米がきっかけとなって幕府も朝廷の予算を大幅に増額せざるを得なくなり、それが末端まで分配されて下級官人たちの生活がようやく楽になったと言っています。
真相は分かりませんが、あちこちから圧力を受けて、幕府としても動かざるを得なかったというところでしょうか。
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