重豪、将軍の岳父に
竹姫の縁で一橋家の姫と結婚
前々回、重豪に江戸社交界の教育をほどこしたのが将軍吉宗の養女竹姫だったという話をしました。
一部繰り返しになりますが、竹姫は京都の公家清閑寺煕定(せいかんじ ひろさだ)の娘で、宝永2年(1705)に生まれています。
5代将軍綱吉の側室大典侍(おおすけ)は竹姫の叔母(父の妹)ですが、彼女は子がなかったため、宝永5年(1708)に綱吉に願って竹姫を将軍の養女(つまり自分の娘)にしました。
竹姫は会津藩嫡子松平久千代との婚約が決まったものの、久千代が間もなく死んだことから縁組は流れ、その2年後に決まった縁組も相手の早世で不縁になり、ずっと大奥で暮らしていました。
これをあわれんだ8代将軍吉宗が自分の養女にし、島津継豊の後室(後妻)に押し込んだのです。
さて、享保14年(1729)に竹姫が島津家に嫁いだことで、島津家と徳川一族との関係が大きく変化しました。
それまでなかった徳川一族からの縁談が来るようになったのです。
まずは竹姫の義理の息子となる宗信(継豊の側室の長男)に、御三家筆頭である尾張藩主徳川宗勝の娘房姫との縁談が持ち込まれ、婚約にいたりました。
しかし房姫が亡くなったため、妹の嘉知姫とあらためて婚約したものの、今度は宗信が早世して縁組は流れてしまいます。
その後重豪が江戸に出てきたとき、また尾張藩からの縁談がありましたが、以前のこともあって竹姫は乗り気ではなかったようです。
そうしていると、今度は御三卿の一橋宗尹(むねただ)の娘保姫(やすひめ)との縁談が舞いこみました。
しかもこの話は9代将軍家重の「思し召し」だということで、直接竹姫に持ち込まれたものです。
将軍家重も、一橋宗尹も、ともに吉宗の子供ですから、竹姫の義弟になります。
そこで竹姫のゴーサインがでて、重豪は保姫を正室として迎えることになりました。
周延「千代田之大奥 婚礼(部分)」(国立国会図書館デジタルコレクション)
竹姫の遺言
宝暦12年(1762)、保姫は重豪のもとに嫁ぎました。
翌宝暦13年(1763)二人の間には女子が生まれましたが早逝し、その後保姫は子宝に恵まれなかったことから、心配した竹姫が重豪に側室を持たせるなどの面倒をみています。
すっかり都会人となっていた重豪は国元の女性を好まなかったため、竹姫が従兄弟甘露寺規長(かんろじ のりなが)の娘綾姫と、同格の公家堤代長(つつみ としなが)の娘於千万(おちま)を江戸に呼び寄せました。
明和6年(1769)に保姫が病没したため綾姫は後室となり、安永元年(1772)に竹姫が亡くなった後に於千万も側室となって、安永2年(1773)12月に後の26代当主斉宣(なりのぶ)を産んでいます。
また斉宣が誕生する半年前の安永2年6月、重豪と側室於登世との間に女子お篤(とく)が生まれました。
そして同じ年の10月には保姫の弟で一橋家の2代当主である治済(はるなり)にも、嫡男豊千代が誕生していました。
安永4年(1775)、島津家はお篤と豊千代の縁組を申し入れます。
これは島津家と徳川家の血縁が長く続くようにと願った竹姫(継豊没後の名は浄岩院:じょうがんいん)が、「重豪に娘が生まれたら、徳川一族と縁組をさせるように」という遺言を残していたから(原文はこちらの461頁1275号)でした。
保姫の実家である一橋家の方も異存はなく、お篤は茂姫と名をあらためて豊千代の婚約者になりました。
この段階では島津家と一橋家という大名同士の婚約です。
しかし、二人の婚礼までの間に環境が激変しました。
大名の娘が御台所に
安永8年(1779)に10代将軍家治の世子家基が急逝したため、天明元年(1781)閏5月に豊千代が将軍の養子になったのです。
豊千代は江戸城西の丸に入り、名も家斉とあらためました。
同じ閏5月に茂姫も一橋家に引き取られ「御縁女様」と呼ばれるようになりました、婚約者として教育するためです。
最初は一橋屋敷に入った茂姫ですが、その後江戸城本丸大奥に新築された御殿に迎えられています。
この時点では茂姫はまだ将軍世子の婚約者という立場でした。
しかし、天明6年(1786)8月に家治将軍が亡くなり家斉が11代将軍に就任すると、大名家の娘が将軍の結婚相手にふさわしいかという議論がおこりました。
というのも、徳川政権が安定した3代家光以後、将軍の正室(御台所)はすべて皇族か公家のトップである摂関家の姫君だったからです。
江戸時代は格式が何よりも重んじられたため、将軍家と大名家しかも外様では家格がつり合わないので不適当だという意見がでてきました。
そのような意見を押さえたのが、「竹姫様の遺言」です。
じつは将軍家の縁組みについては、大奥が多大な影響力を持っていました。
さきに述べたように竹姫は幼少期に将軍の養女となってから島津家に嫁ぐまで20年以上大奥にいたため、一時期は将軍家の女主(おんなあるじ)ともいうべき地位にあったそうです。(畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波新書 による)
かつて大奥の最高実力者だった竹姫様の遺言となれば、大奥の老女たちも従わざるを得ません。
また、すでに江戸城に「御縁女様」として迎えられ、世子の婚約者であることを家治将軍が承認していたことも大きかったと思われます。
茂姫は形式要件を整えるため、島津家と関係の深い摂関家筆頭近衛家の養女となり、名を寔子(ただこ)とあらためて、寛政元年(1789)2月に将軍家斉の御台所になりました。
茂姫が御台所になれば重豪は将軍の岳父(舅)にあたります。
大名が将軍の岳父では幕政に不都合だろうということから、茂姫の婚姻に先立つ天明7年(1787)1月に重豪は隠居を願い出て、藩主の座を茂姫の弟斉宣に譲りました。
とはいえ藩主の権限を手放す気はなく、「藩政を後見する」という名目で、薩摩藩の実権を握りつづけていました。
将軍の岳父となった重豪の権勢は大変なもので、高輪の薩摩藩邸に居住していたことから「高輪下馬将軍」と呼ばれるようになります。
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