尾張は元来勤王藩だった
徳川御三家の筆頭
前回、嘉永7年(1854)に焼失した御所の復旧工事の際、敷地を少し拡張したいと望みながらそれを言い出せない朝廷に代わって幕府に進言するよう、島津斉彬が尾張藩主の徳川慶勝に持ちかけたという話を紹介しました。
尾張藩は御三家の筆頭で、徳川一族として将軍を補佐するだけでなく、将軍家にあとつぎがいないときには次の将軍を出すことができるという最高の家格をもった大名です。
つまり将軍家を支える大黒柱といえましょう。
このような立場なので、尾張藩主慶勝が幕府に働きかけたのは、幕府のためを思ってのことだと考えがちです。
しかし慶勝の交友関係をみると幕府に批判的な大名が多く、幕府へ働きかけたのも朝廷のために動いたというのが真相のようです。
というのも、前回ご紹介した八木雕(あきら)が史談会で語った話の続きがこうだったからです。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)
まずそこらから薩州侯(斉彬)とは格別勤王のことはご相談申し、かつだんだん異国船の参ってやかましくなるについて、国事のこともご相談申しました。
あの時水戸烈公(斉昭)、越前(松平)春嶽侯はもちろん、それから薩州公、土佐の(山内)容堂侯、宇和島侯(伊達宗城)、黒田侯(長溥)等にも折々ご面会あるいはご文通申すなど、色々致しました。
それから幕府から「あまり国主などへご懇意になさるはよくない」ということでござりまして、又鎖港のことなどにも縷々(るる)激論を致しますによって、老中も避けて、あまり会わんようにしようということになりました。それが尾州家の旧幕に忌まるる始まりでありました。
【「名古屋藩国事鞅掌に関する事実附十八節」『史談会速記録 第7輯』】
八木は、「慶勝が国主大名(一国以上を支配する大大名、多くは外様)と親しくなりすぎていることに幕府が難色を示したのを無視しただけでなく、鎖港問題などでくってかかるために老中からも避けられるようになったことで、尾張藩が幕府に嫌われ始めた」と語っています。
じっさい4年後の安政5年(1858)には、日米修好通商条約を無勅許で調印したことに対し不時登城して井伊大老に抗議した慶勝が、連れだって行動した水戸前藩主徳川斉昭・その子で藩主の徳川慶篤や同じく息子の一橋慶喜らとともに幕府から処罰(慶勝は隠居・謹慎)されています。
ついでにいうと慶勝の母は水戸斉昭の妹なので、斉昭と慶勝は伯父・甥の関係になるため、おなじ御三家である水戸藩とは非常に親密でした。
尊王思想の始まりは尾張
水戸藩は、幕末に一大ムーブメントとなった「尊王思想」の震源地でした。
水戸藩が尊王、つまり天皇を尊び、天皇こそが国政の中心だとする考えをいだくようになったのは、2代藩主光圀(みつくに:水戸黄門として有名)からです。
その光圀に尊王という考えを吹き込んだのは、伯父で尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお:徳川家康の9男、光圀の父頼房は11男)だという説があります。
それを示すものが名古屋城のお庭、二之丸御殿跡に立っている「藩訓秘伝の碑」です。
藩訓秘伝の碑(左が碑の表面)
藩訓とは藩祖義直の訓示、しかも秘伝ですから「義直公の極秘指令」ということです。
碑の表面には「王命に依って催さるる事」と彫られています。
これは尾張藩の4代藩主吉通(よしみち:院号は円覚院)に仕えた兵法家の近松茂矩(ちかまつ しげのり)が書き記した『円覚院様御伝十五箇条』にある言葉で、もとは藩主から次期藩主への口伝でした。
初代義直から4代吉通までは口頭で引き継がれましたが、吉通が亡くなるときに世子五郎太がまだ3歳だったため、侍臣の近松に口述筆記させて伝え、それが『円覚院様御伝十五箇条』として残ったのです。
「依王命被催事(王命に依って催される事)」というのは、「天皇の命によって行動せよ」という意味ですから、幕府と朝廷が対立したときには尾張藩は朝廷側につけという指令です。
じっさい幕末の尾張藩は朝廷・新政府側に立って行動しました。
戊辰戦争でもし尾張藩が幕府側についていたら、尾張藩の動向をうかがっていた東海道一帯の各藩も幕府側となって戦い、新政府軍が敗北した可能性もあります。
桜田門外の変で井伊大老が討たれたのち藩主に復活した慶勝が藩祖の秘密指令に忠実に従ったことで、東海道の大名がみな尾張藩と共同歩調をとり、官軍に従いました。
繰り返しになりますが、もし尾張藩が御三家として幕府を支援していれば歴史が変わっていたかも知れません。
「義直公の極秘指令」が日本を大乱から救ったというのは言い過ぎでしょうか?
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