猿ヶ辻と鬼門封じ
北東は鬼門
前回は猿ヶ辻の変についてお話ししましたが、この猿ヶ辻は京都御所の北東隅にあたります。
京都御所の敷地は東西に短く南北に長い長方形となっており、その四隅(南東・南西・北西・北東)のうち、3つは凸形つまり直角に出っ張った形ですが、北東隅の猿ヶ辻のみ凹型にくぼんでいます。
これは御所の「鬼門封じ」のためです。
京都御所の四隅のちがい(左が猿ヶ辻、右はその他の角)
北東は昔から「鬼門(きもん)」とよばれ、鬼(邪気)が入ってくる門(入口)だといわれてきました。
それで、鬼が入ってこないように「鬼門封じ」が工夫されたのです。
要は北東隅の角(凸部)をなくしてしまえということです。
角をなくしてしまえば鬼門もなくなる、というのはいささか強引な理屈ですが、鬼門を凹ませるのはまさにその発想で造られています。
猿ヶ辻の凹みを見たときにどこか見覚えのある感じがしたのですが、鶴丸城(鹿児島城)石垣の北東隅にもこれと同じような凹みがありました。
鶴丸城の石垣
鶴丸城の築城には福建省出身の中国人、黄友賢(こう ゆうけん)が加わっています。
黄は風水に通じていたとされるので、城の設計にあたって風水をとりいれたことは間違いないでしょう。
それで鬼門を凹ませたものと思われます。
家相
現代でも、家を新築する際に鬼門を気にする人は少なくありません。
家相でよく使われる、方位と十二支の位置づけは次の図のようになります。
鬼門となる北東は十二支でいえば丑寅(うしとら)で、その反対側の「裏鬼門」つまり南西の方角は未申(ひつじさる)になります。
これはこじつけのような説ですが、鬼は丑虎の方角から入ってくるので牛の角を生やして虎の皮を腰に巻いていると説明されたものを読んだ記憶があります。
では正反対に位置する裏鬼門は鬼が出ていく方角なので、こちらにもそのたぐいの話があるかと調べましたが、見つかりませんでした。
ただ、羊は出てきませんが、猿は登場します。
それは猿ヶ辻の軒下に鎮座していました。
猿ヶ辻のサル
猿ヶ辻の塀は凹んでいるので、先ほどの写真のように塀の端に当たる部分(「妻(つま)」といいます)が、北向き(写真の右側)と東向きのふたつあり、その東向きの方の屋根の下は金網におおわれていますが、奥に烏帽子をかぶって御幣をかつぐ猿が見えます。
置かれているのは蟇股(かえるまた:梁の上に置いて屋根を支える部材、カエルが脚をひろげたような形をしているのでこう呼ばれる)のところで、ほかは菊の御紋章なのに、ここだけが猿の浮き彫りになっています。
蟇股に彫られている御幣をもった猿
暗くてわかりにくいのですが、こうなっているようです。
史迹美術同攷会『史迹と美術 1949-07』より(国立国会図書館デジタルコレクション)
この猿について、スケッチを描いた歴史学者の川勝政太郎氏はこう述べています。
何故に鬼門除けに御幣猿を選んだかというと、これは京都の東北に聳(そび)える比叡の山延暦寺は昔から京都の鬼門を守るというので有名であるが、この寺と東麓の日吉神社とは古来密接な関係があり、日吉の神は比叡の地主神、延暦寺の鎮守であって、かの山法師が皇室に強訴するときには日吉の神輿をかつぎ出したことは史上に著名である。
この間の事情を考えてみると、猿ヶ辻の猿は特に京都の鬼門を守る日吉の神使として選ばれたことが推察できよう。
【川勝政太郎「猿ヶ辻の蟇股」『史迹と美術 1949-07』】
つまり、この猿も鬼門封じのひとつというわけです。
ここで「東麓の日吉神社」とあるのは、日吉神社の総本宮である日吉大社(ひよしたいしゃ)のことで、猿ヶ辻の猿も日吉大社のホームページに「京の都を守る神猿」として解説されています。
なお、猿の浮き彫りが金網でおおわれていることについては、環境省の京都御苑ホームページに、「御所の北東角、鬼門の方角に当たる築地塀の軒下には、木彫りの猿が祀られています。この猿は御所の鬼門守護のため日吉大社から遣わされたものの、夜な夜な抜け出し悪さをしたため、金網で閉じ込められたと伝えられています。」という説明がされていました。(「御苑案内図」の猿ヶ辻をクリック)
観光客がいたずらするのを防ぐための金網ではなかったのですね。
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