容堂をほめる久光に木戸が感服、しかし小説になると‥‥

容堂、久光には遠慮せず

 島津斉彬を尊敬していた山内容堂ですが、弟の久光に対してはそうでもなかったようです。

旧土佐藩士の板垣退助が明治44年の史談会で、こんな話をしていました。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にし、送り仮名を加えています)

明治六年に島津久光公が出て来られた。
ところが三条(実美)公と岩倉(具視)公とが頭を抱えて苦んでおられた。どうか(板垣)参議などから一つ久光公を説いてくれということで、私にもそういうお話がありました。
 「私はとてもそういう気の利いたことは出来ませぬ、出ればお怒りを受くるに違いないから外の人をおやりなさい、しかし他に行く人が無くてお怒りを受けてもよいとなる場合には私が行きましょう」 と申しました。
そこで木戸〔孝允:原注〕が行った。
ところが色々話になっている内に、久光公が言わるるには 
「どうも大名などという者はこのごろは馬鹿扱にせられておる。せめて容堂が生きておれば、こうも馬鹿扱にはせられまいが」
 と言われたので、木戸は誠に意外に思って、 
「これはどうも不思議なことを承わります、あなた様と容堂公とはよほど御性質が違う様に伺っておりますが、今のお言葉はどういう理由でございましょう」 
と言うたら、久光公は、 
「イヤそれは容堂という奴は随分ひどい奴ぢゃ、あれは私の義理の甥になるが、あるとき二条城に出ておって、閣老に建言をしようということがあって、いっしょに行こうと容堂が言うから、自分はその前の意見に大同小異であって、小異のあるだけお前と一所に行くのを好まぬから、別に行こうと言った。
スルト何の行かぬことがあるものかと言って私の襟首を捉まえて一間(1.8m)ほど引張った。それで私は煙管(キセル)で思う様捉まえている手を殴ったら、容堂はアハハと笑て突放して行ってしまった。
義理と言っても伯父甥の間であるのにこの始末で、彼は誠に乱暴この上なしであるが、しかし彼は人物ぢゃった、彼が生きておれば大名なども馬鹿扱にされぬであろうに」
 と言われたので、木戸が驚いて帰って来て私に言うには、 
「自分は久光公という人はむずかしいゴツゴツしたおじいさんであるとばかり思っていた。所が、どうもあの容堂公の乱暴をひそかに賞賛されたのを見ると、公もまた凡人では無い。ああいう余裕はあのお方に無いと思ったが、今日は感服をした」 
と申しました。
そうして見ると、誠にちょっとしたお話であるけれども、双方の人となりは分ると思う。
【板垣退助「山内容堂公行実幷(ならびに)板垣伯同公世評の弁明附六十二節」 史談会速記録第223輯】 

明治政府は鹿児島にいる久光が政府批判を続けているのに手を焼いて、政府の考えを説明するために東京に呼び寄せたのですが、みな説明役を尻込みしたので、木戸が久光のところに行きました。

すると久光が、前年に亡くなった容堂を賞賛して、「容堂が存命なら、大名も馬鹿扱いされなかっただろう」と語ったので、久光の度量に木戸が感服していたという話を板垣が披露したのです。


木戸孝允(国立国会図書館デジタルコレクション)


同じ話も小説では‥‥

前回の話もそうでしたが、板垣の話からも、久光と容堂は義理の叔父・甥(容堂の義母祝姫は島津家出身で久光の姉)という関係ながら、うちとけた友人としてつき合っていた様子がうかがえます。

しかし、同じエピソードを元にしたと思われながら、小説の中で使われると、全く別の関係のように書かれることもあります。(読みやすくするため、文中の漢数字をアラビア数字に変えています。カッコ内の平仮名は原ルビ)

 慶応3(1867)年春、いよいよ時勢は煮えつまり、幕府も、日本の公式政権としての力をほとんどうしなった。
 久光が、大久保におだてられて京へのぼったのは4月12日である。去年の12月25日、討幕派にとって大きな障碍(しょうがい)であった孝明帝が崩じ、この正月、16歳の新帝が践祚(せんそ)された。公卿の岩倉、それに西郷、大久保ら討幕計画者たちは、このときに事をおこそうとしていた。
 久光と前後して、雄藩の諸侯たちもぞくぞく入洛してきた。大久保と西郷のお膳立によれば、久光が肝煎(きもいり)となって招(よ)んだことになっている。諸侯会議によってこの混乱を打開しようというものであった。
 京での久光は、いそがしかった。久光は行列を練っては議場にゆき、そこで大久保に教えられたとおりのことをしゃべった。大久保はいつも黒子(くろこ)として次室にひかえていた。
 ある日、二条城で会議がおわったあと、数人の諸侯が、
「これから、閣老に会おう」
 といって立った。べつに閣老に用事があるわけではなく、ちょっとあいさつ程度の気軽な会見である。が、久光は、昨日今日、大久保から
 ――もはや、幕府関係者とは会われませぬように。
 といわれていた。大久保らの討幕の秘計はほとんど実現寸前にきていた。無用のことを久光に喋(しゃべ)られてはかなわぬとおもったのであろう。
「さあ、参ろう」と、諸侯たちが立ったが、久光は立たなかった。
 それを、土佐の山内容堂が気づき、ひきかえしてきた。容堂はすでに久光の挙動があやしいことを勘づいている。
「隅州(久光)、参られい」
 と、容堂は突っ立ったままいった。久光は無言で表情を固くしている。
「参られい、と申すのに」
 と、容堂はいきなり久光のえりがみをつかみ、ぐっとひきよせた。大力できこえた大名である。引き倒されかけて久光は、
「なにをなさるっ」
 と、もがき、かろうじて扇子をあげ、容堂の手をたたいた。容堂はぱっと手をはなすふりをして久光を突きころばした。小柄な久光は勢いよくころんだ。うまれて、こんなことを人にされたことはない。
 容堂もさすがに間がわるいと思ったのか、はじけるように笑い、
「冗談じゃ、冗談」
 といいながら廊下へ出た。徳川家を温存しようとしている容堂は、薩摩の討幕の陰謀に対してにえかえるほどの怒りをもっていた。それがたまたまこんな行動になってでたのであろう。
 久光はみじめであった。討幕計画などというものも、そう標題をうてるほどの内容のものはなにもまかされていない。すべて大久保らがやっている。やっている当の大久保の身はなんの故障もなくて、知りもせぬ久光だけが殿中でつきころばされていた。
【「きつね馬」 司馬遼太郎『酔って候』文春文庫】

この短編小説の中で久光は、「大久保におだてられて京へのぼった」「大久保に教えられたとおりのことをしゃべった」「大久保から(中略)といわれていた」「なにもまかされていない。すべて大久保らがやっている」など、いかにも無能な人物のように設定されています。

馬鹿扱いされている久光ですが、じつは斉彬が「弟周防〔久光公旧名:原注〕は学問もあり、咄相対(はなしあいて)になるは此一人なり」【「二四九 黒田長溥公市来廣貫ヘ御親話」『鹿児島県史料斉彬公史料第三巻』328頁】と語っていたほどの人物です。

生年も久光が文化14年(1817)、大久保は天保元年(1830)で、久光が13歳年上ですから、慶応3年(1867)であれば、数え年で久光51歳、大久保38歳になります。

地位・経験・見識のすべてにおいて久光の方が大久保より上だと見るのが素直だと思いますが、小説では全く逆のイメージになっています。

事実は無視されて、容堂が久光の襟首をつかまえる話が使われ、「容堂はアハハと笑て突放し」たことが、「容堂はぱっと手をはなすふりをして久光を突きころばし」て「久光はみじめ」に「殿中でつきころばされていた」という話に置き変わるのです。

小説というのはフィクションですからいたしかたないとはいえ、久光には気の毒な話です。






幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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