攘夷は討幕のための口実だった
有馬藤太聞き書き
前回の「攘夷は何のため?」では、旧鳥取藩主池田茂政と寺師宗徳のやりとりの中で寺師が「(攘夷は)幕府をいじめるためにされたという疑いがある」と語っています。
じつはストレートに「攘夷は幕府を滅亡させるための手段だ」と言い切った人がいました。
それが明治維新の立役者、西郷隆盛です。
旧薩摩藩士で、鳥羽伏見の戦いでは中村半次郎(のち桐野利秋に改名)と同じく小隊長を務めた有馬藤太(のち純雄に改名)が、西郷からそう教えられたと語っています。
大正6年(1917)に、有馬が請われて明治維新の記憶を語った中にありました。
池田と寺師のやりとりは明治25年(1892)の史談会ですから、有馬の談話はその25年後になります。
以下に引用するのは有馬が、鳥羽伏見の戦いが勃発する数日前に、中村半次郎に同行して岩倉具視に状況を説明に行ったときの話です。
有馬藤太の回想録からの引用で、少し長くなりますが、西郷隆盛の考えがよく分ります。
(岩倉具視)「幕軍は三、四万もいるが大丈夫か」
(中村半次郎)「彼らは烏合の衆ばかりでありますから、薩州軍だけで十分であります。
御心配はいりませぬ」
とハッキリ言明したら、やや安心の色が見えた。
岩倉公はまた、
「この戦いが終わると攘夷をせねばならぬが、その手配は出来るか」
と問われた。
中村は
「攘夷などということは、御前の口からお出しなさるものではござりませぬ。
これは討幕のための口実。
その実、決して攘夷をするではなく、かえって世界各国と交通して西洋の長をとり、わが国の短を補い、ますますわが長を発揮して、帝国の威光を宣揚せねばなりませぬ」
と答えたので、私は変に思った。
元来、私は非常な西洋嫌い。
攘夷はしないという中村の答を聞いて「中村の奴、何をバカなことをぬかすか」と思ったが、そこで口を出せば口論になるから黙って辛抱していた。
間もなくお酒が出た。
当時大そう貧乏していた公卿さんにしては非常なご馳走であった。
御返杯はせぬということなので盃を頂いておいとまをした。
さきほどの中村の言葉が気になってならぬので、
「おまや(お前は)、さきほど岩倉公に向って攘夷せぬと言明したが、ありゃ本当のことか。
または何か訳あってのことか」
となじると、
「おまや、まだ先生から聞かぬのか。
それじゃ明日先生からくわしく承れ。
そうすればよくわかる」
という。
(中略)
それから西郷先生のところへ行って攘夷の件について教えをこうと、
「ア、お前にはまだいわなかったかね。
もういっておいたつもりじゃったが。
ありゃ手段というもんじゃ。
尊皇攘夷というのはネ。
ただ幕府を倒す口実よ。
攘夷攘夷といって他の者の志気を鼓舞するばかりじゃ。
つまり尊王の二字の中に討幕の精神が含まれているわけじゃ」
といわれた。
初めて多年の迷夢がさめ、攘夷はせぬものだということがわかった。
【「慶喜公大阪へ立ちのく」上野一郎編『私の明治維新 有馬藤太聞き書き』産業能率大学出版部】
史談会では三條実美の態度から、攘夷の実体は幕府いじめではないかと推測していたのですが、このときの岩倉は「討幕の次は攘夷実行だ」と考えていたようですから、公家の中でも考え方はバラバラだったのかも知れません。
岩倉具視
『幕末・明治・大正回顧八十年史』より
西郷の考えは斉彬の教え
とにかく、西郷の考えは藤田東湖と同じ「内戦外和」でした。
また中村半次郎が岩倉に語った、「西洋の長をとり、わが国の短を補い、ますますわが長を発揮して、帝国の威光を宣揚」するという考えは、島津斉彬が西郷に教えたものです。
西郷は斉彬に、「殿様は水戸では”オランダ好き”の癖があると言われています」と進言したところ、斉彬から「西欧列強に侵食されている支那(中国、当時は清王朝)を見よ、日本も急いで近代化しないとあのようになってしまうぞ」と諭されたことがあります。
そのとき斉彬は、西郷にこのように語りました。(一部漢字を仮名に変更、原文はこちらの141頁)
ひろく宇内(うだい:世界)に耳目を注け、支那・天竺(インド)・オランダその外ヨーロッパ諸国何れよりにても、その長ずる事、その宜しきは悉く取り用いて、我国の短欠を補い、日本をして世界に冠たるの国となし、国威を輝かさんを眼目に思えり
【「一二六 西郷隆盛洋癖云々御諫言ニ対シ御弁解ノ譚」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】
西郷は斉彬から言われたことを、そのまま中村に伝えたのでしょう。
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