東北人から見た「薩摩人の気質」
薩摩見聞記
前回の「美少年礼賛」で旧長岡藩にうまれた本富安四郎(ほんぶ やすしろう)の話を引用しましたが、彼の話をもう少ししたいと思います。
本富が鹿児島の盈進(えいしん)尋常高等小学校の教員として着任したのは明治22年(1889)西南戦争の12年後で、当時の薩摩はまだ江戸時代の気風が残っていました。
本富の出身地は現在の新潟県長岡市ですから、薩摩に来て人びとの考え方や習俗が東北と大きく違うことに驚き、異邦人の目で見た薩摩の姿を書き残したのが『薩摩見聞記』です。
彼が2年半薩摩に滞在した経験を書いた『薩摩見聞記』にはいろいろと興味深い記述があり、当時の薩摩がどうであったかを知る貴重な資料となっています。
なお、まったく関係ないのですが、その後本富が故郷に戻って長岡尋常中学校で教鞭をとったときの教え子の一人が、のちに連合艦隊司令長官となった山本五十六です。
薩摩人の気質について、本富は「薩摩人の質朴にして勇敢なることは、其国人の特性として夙(つと)に世間に知られたる所なり」と書いています。
その長所・短所についての説明が面白いのでご紹介します。(読みやすくするため、一部漢字を仮名にしてあります)
実に薩人の感情は激烈なり。
この感情強き性質こそ、即ち彼等の言行をして、よく無造作に、よく質朴正直に、またよく他人のために同情を感ぜしむる所以(ゆえん)なり。
されども感情に偏するの後ろは、理想に乏し。
薩摩人士が、一般に科学を好まず、特に数学に不得手なるが如きも、また感情烈しく気短かにして忍耐理想に乏しく、一度試みて成功せざれば、とても力に及ばずとしてこれを抛(なげう)ち去り、同一の理を繰返して思考せざるによれり。
実に薩人に向ては、一事を連鎖的に反覆推究すること、及び一定不変の理想を抱持し、百事これを標準として理論上より判断し行くが如きことは、到底望むべからざる所なり。
【「人物 第二 性質」本富安四郎『薩摩見聞記』 三一書房『日本庶民生活史料集成第12巻』】
つまり、「薩摩人は理詰めでものごとを考えるのではなく、直感で行動する」というのが本富の感想です。
引用した三一書房『日本庶民生活史料集成第12巻』は昭和46年(1971)に出版されたものですが、原口虎雄鹿児島大学教授による詳細な補注がついていて、これがなかなか味わい深いのです。
この部分の補注は「まさにこの通り。第二十代(11代の誤り)藩主斉彬の最も苦心して強化に努めた点である。」と書かれています。
斉彬が着任したときの薩摩については、「島津斉彬の教育改革(1/6)薩摩の武士は学問を軽視していた」で書きましたが、深く考えることが苦手な性向は本富が薩摩に来た明治20年代になっても残っていたようです。
『薩摩見聞記』挿絵「兵児二才歩行之図」
国立国会図書館デジタルコレクション
薩摩人と東北人の違い
激情家であることの説明として、本富は面白い例をあげています。(一部漢字を仮名に修正)
ある人かつて評して曰く、
彼の射的をなすを見るに、東北人は感情遅緩(ちかん:ゆったりしていること)にして、第一発に誤るも敢て騒がず、悠々寛々二発を誤り、三発を誤るも、ために激情せず、幾度も平気にて狙い直せども、薩人ならば、第一発を誤るや、ただちに眼をいからし、毛頭を逆立て、気急ぎ腕震い、狙いも定めずしてただちにこれを放ち、二発、三発引続いて誤れば、たちまち叫んで銃を地上に抛(なげう)ち去る。
この評、誠によく彼等の気風を説明するものというべし。
【「人物 第二 性質」本富安四郎前掲書】
銃で的を狙うとき、東北人なら的を外してもあせらずに何度でも狙いなおすが、薩摩人は最初の弾を外すとたちまち逆上して狙いもつけずに撃ち続け、最後には大声で文句を言って銃を投げつけ去って行くというのです。
本富はこれを「よく薩摩人の気風を説明している」と評していますが、なんとなくわかる気がします。
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