鳥羽伏見の古戦場巡り(3/6)伏見奉行所~恋塚寺

前回に続いて、1月3日のもう一つの戦いです。


伏見の戦い

鳥羽街道で戦いが始まった午後5時ごろ、鳥羽の砲声を聞いた新政府軍(御香宮神社に陣取った薩摩藩砲隊)も伏見奉行所の旧幕府軍に向けて砲撃を開始しました。

御香宮神社は伏見奉行所の北東にあり直線距離だと200mほどで、少し高くなっているため奉行所を見下ろす位置になります。

御香宮神社は現在も残っていますが、奉行所のあった一帯は団地になっていて、団地の入口に石碑が残っているだけです。

神社の表門を出て坂を下り、左折して奉行所跡まで徒歩5分程度でした。


御香宮神社表門(前の道は左に下っています、画面の手前に奉行所がありました)

境内にある「伏見の戦跡」碑

伏見奉行所跡(桃陵団地)

伏見奉行所跡石碑


伏見奉行所にはフランス式の訓練を受けた幕府歩兵隊、前日伏見入りした会津藩兵、12月に二条城から移ってきた新撰組などが入っていました。

新撰組局長の近藤勇は前月に京都で肩を狙撃されて入院中のため、このときに指揮をとっていたのは副局長の土方歳三で、沖田総司や永倉新八も一緒です。

そしてその奉行所をとりかこむように新政府軍が布陣していました。

北に隣接する御香宮およびその東には薩摩藩の砲兵隊と小銃隊、薩摩兵の西には長州藩の小銃隊、さらにその西には土佐藩の小銃隊という展開です。

午後5時頃、鳥羽の砲声を契機に、新政府軍の9門の大砲が奉行所に向けていっせいに砲撃を開始しました。

同時に奉行所の北門(御香宮側)が開かれ、中から数百人が飛び出します。先頭は刀を持った新撰組と会津兵、幕府歩兵も300mほどの幅に展開して銃撃を行ないます。

当時使用していた黒色火薬は発砲すると大量の白煙がでるので、双方が銃撃すると一面霧に包まれたようになったそうです。

新撰組は銃を持っていないので白刃突撃ですが、新政府軍の銃撃は激しく、斬り合いの距離まで近づくことができません。

当時最も多く使用されていたミニエー銃は前装式のライフルで、一発撃つごとに弾込めが必要ですが、薩摩兵は4列に並んで、まず1列目が撃ち、撃ったらそのまま銃剣を構えて槍ぶすまを作り、ついで2列目が発砲し、3列目は撃った銃を受取って弾込めされた銃と交換し、4列目は撃った銃に次の弾を装填するというフォーメーションで、2列目が途切れなく発砲していたため、さしもの新撰組も刀がとどくところまでたどりつけません。

そのうちに奉行所の弾薬庫に着弾して大爆発をおこしました。

戊辰戦記絵巻には、伏見の町が炎上する様子が描かれています。

戊辰戦記絵巻「伏見戦争」

「伏見戦争」(奉行所部分)

この戦闘について、旧長州藩の林友幸が次のように語っています。

彼処(あすこ)は市街(まち)が碁盤の目にようになって居るから、どっちからやって来るかも知れぬ。
それで長州は南の方へ向って撃つ、薩摩は横の方から西に向って砲撃して呉れと云うことにして、南の方は長州が引受ける、薩州は西に向ってやると云うので、丁度十文字に撃ったからピチリピチリいったものだ。
【林友幸「伏見鳥羽方面」『維新戦役実歴談』 維新戦没者五十年祭事務所刊】

「伏見戦争」(御香宮部分)

この争いで伏見の町は大火事になりました、人々にとってはずいぶん迷惑な話です。

絵巻には、大急ぎで逃げ出した人たちの様子も描かれています。

戊辰戦記絵巻「伏見人民逃走」


右上に描かれている建物は「恋塚寺」とありますので、鴨川の近くまで逃げてきたのでしょう。

グーグルマップで奉行所のあった桃陵団地から恋塚寺までの距離を調べると3.3km徒歩43分となっていました。

「伏見人民逃走」(恋塚寺部分)

現在の恋塚寺はこんな感じです、敷地がずいぶん狭くなっていますね。

鳥羽伏見の戦いは鳥羽も伏見も新政府軍(薩長軍)の大勝利になりましたが、戦力は旧幕府軍の方がはるかに上回っていたので、総指揮官の西郷隆盛も内心は心配していたのでしょう。

深夜に西郷がこっそりと前線を訪れています。

応対しているのは長州の林友幸、ちなみに戊辰戦争で長州兵は林のかぶっているような平たい笠、薩摩兵は西郷と同じ先のとがった笠を着用していました。

戊辰戦記絵巻「西郷吉之助伏見戦場巡視」


(4/6)につづく


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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