大久保利通の死に絡んだ不思議な出来事
維新の体験者に話を聞くことから始まった史談会ですが、そこで語られた話の中にはときおり奇妙なものが混じっています。
たとえば、以前にとりあげた「幕府軍の長州再征中におきた怪事」のような話です。
歴史の本筋とはちがうのであまり取りあげられることがないのですが、ブログ主的には興味深く読んでしまう部分です。
桐野利秋の亡霊
今回は西南戦争で西郷隆盛と対立した大久保利通の因縁話をご紹介します。
これは島津家事蹟調査員だった寺師宗徳が、明治41年の史談会でかたったものです。
(読みやすくするために、仮名づかいをあらため、一部の漢字をひらがなにしています)
(大久保利通が)刺殺されます朝、西郷隆盛の書きました書面を懐(ふところ)にして居った。
絶筆を誰かに送った書面だそうであります、何の必要があってそれを持ったかということは分らぬ。 その書面にはやはり血痕がしみ込んでおる、これがちょっと偶然ながら妙な事であります。
それから今一つは先回この会員でございました鹿児島の人で勝木(加治木の間違いか?)常樹という、城山まで行って捕われて、今日まで無事に生存している人であります。
その人の話に、城山が陥落の前晩、明日はいよいよ総攻撃に加わるから、これがお互い終焉の地である、ついては生前一杯別れをやろうといって岩崎山で酒宴をやった。
その時に桐野(利秋)その他一列のおもな者が皆集ったそうであります。
そうして酒を飲みながら種々快談が多くあった。
その時桐野が酒席なかばに厳然と形を正して一座をながめ廻して言いますには、「さて人間の霊魂というものがあるであろうか」こういう言いだしだそうで、そこで皆モウ誰も答える人が無く黙しておりました。
「霊魂があるならば、ヤツがそのままに置かぬ、アハハハ」と笑った。
一座しんとしておった。
そこで翌日は陥落で、死ぬ者もあれば逃げる者もあるような事で、それきりになってしまった。
ところが大久保氏の細君がそれから六ヶ月目か四ヶ月目になくなって仕舞った。
その発病の前晩がこうじゃった、フイとこう人が居った、驚いて「アー桐野さんが」と言った。
それが神経の痛みで、それから床についてそれきり起たなかった。
それで、今勝木が言うておりますが、あの時はモウ明日死ぬときであるから、何人も良心がある訳では無かったけれども、桐野が一言は脳にしみ込んだという現状を話しました。
これは誠に迷いの話ではございますが、アレだけの胆力のあった者が一世の死にぎわにおいての一言でございますから、多少のいわゆる跡に伝えが残ったものか知らぬという事が逸話になっております。
【「本会の常集会に於て寺師宗徳君臨席 大久保公暗殺の事実に対して」『史談会速記録第244輯』】
城山で西郷と共に討死した桐野の幻影を見て倒れ、そのまま床について亡くなってしまったというのはホラーっぽい話です。
しかし、調べてみたら大久保夫人(満壽子)が亡くなったのは明治10年9月におわった西南戦争の「六ヶ月目か四ヶ月目」ではなく、翌明治11年の12月(大久保利通暗殺は同年5月)でした。
利通の三男利武がこう語っています。
父遭難の当時、自分は十二歳で平河町の同人社の塾に、二兄(利和、牧野伸顕)は開成学校に寄宿していた。 その日授業中呼びに来て驚いたが時間の済むまでじっとしていた。
帰宅してみると屋敷は大混雑、殊に母は非常に愁嘆していた。
その時も少々煩っていたが、その年の暮れ(十二月六日 行年二十八歳)に歿した。
【「大久保利通遭難地調査書」ゆまに書房『臨時帝室編修局史料「明治天皇紀」談話記録集成 第9巻』】
大久保夫人はもともと病床にあったのが、夫暗殺のショックで7ヶ月後に亡くなってしまいます。
しかし、そもそも桐野がうらんでいたのは大久保利通本人であって、夫人ではないはずです。
夫人が亡くなったのは、桐野討死の4~6ヶ月後ではなく1年3ヶ月後ですから、タイミングもあいません。
話としては面白いのですが、残念ながら都市伝説のようなものでしょう。
大久保利通肖像
公爵島津家記念写真帖より
県外人による大久保暗殺で鹿児島内の恩讐が消えた
寺師の話を続けます。
結局大久保氏の死の如きはまことに痛惜に堪えぬ話でありますが、しかしあの人が死した後はどうかというと、アレが機になって、十年の戦争に親が殺され子を討たれ夫を失ったという怨恨がスッかり跡を絶ってしまった。
それでとにかく西郷という人と大久保という人は、終身国事に尽して、兄弟ただならぬ事でありました。
一は死して一は生存する事は無さそうに思います。
果たせるかな、両氏共に死を為すという因縁も浅からぬ事であります。
両氏死してついに鹿児島というものは一致してしまった、誠に奇麗になってしまった。
アレが不幸中の幸いは、鹿児島人がアレをやりますと、今になってもいくらか痕跡が残った。
ところが石川の人という、とんでもない人が出て来たという事も、まことに妙な偶然の事であります。
それで今日は鹿児島の十年戦争の時の怨恨というものは殆ど跡を絶ったゆえんであります。
大久保暗殺犯は石川県士族の島田一郎など6名で、大久保が内務省に馬車で出勤する途中を襲われました。
この大久保襲撃犯が鹿児島人で西郷支持者だったなら鹿児島では西郷派と大久保派のはげしい抗争が続いたでしょうが、鹿児島とは何の関係もない石川県人の手によって大久保が殺されてしまいました。
寺師によればこれで西郷派は大久保へのうらみがなくなり、大久保派は西郷をにくむ理由がないので、鹿児島県人どうしがにくみあう理由が消えてしまったということです。
その日に限って護身用のピストルを持たず
大久保が襲われたとき、一緒にいたのは馭者の中村太郎と馬丁の小高芳吉で、小高は逃げて助けを求めに走りましたが、大久保を守ろうと抵抗した中村は殺されています。
大久保は日頃から護身用のピストルを準備していたのですが、その日にかぎってピストルを持っていませんでした。
ひとり生き残った小高の証言です。
旦那様はいつも短銃をお側に置かれますのに、この日に限って、今晩六時から芝離宮の支那公使招待会に行かねばならぬから掃除をしておけと、短銃を会計掛の小林隆吉にお預けになりましたので、護身の道具はなにもありませなんだのは口惜しゅうござりました。
【「大久保利通遭難地調査書」ゆまに書房『臨時帝室編修局史料「明治天皇紀」談話記録集成 第9巻』】
予知夢?
さいごに、大久保が暗殺の数日前に見た夢の話をご紹介します。
これは大久保内務卿の片腕として信頼された「郵便の父」前島密(まえじま ひそか)が明治43年に語った談話です。
紀尾井町の変(大久保暗殺事件)のあった三、四日前の晩、何であったか、相談することがあって、大久保公の屋敷へ行った。
一緒に晩餐を食べていたら、 「前島さん、私は昨夕(ゆうべ)変な夢を見た。なんでも西郷と言い争って、しまいには格闘したが、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。
脳をひどく石に打ちつけて脳が砕けてしまった。自分の脳がビクビク動いているのがアリアリと見えたが、不思議な夢ではありませんか」 というような話で、平生夢のことなどは一切話されぬ人であったから、不思議に思っていたが、偶然かどうか、二、三日にして紀尾井町の変が起こった。
その日は太政官に緊急な相談事件があって、皆が早く出かけた。
皆が出揃っても大将一人見えない。
大変に遅いがどうしたのだろうと言っていたら、使いが来て、今大久保公が紀尾井町で刺客の手に倒れたと報(しら)して来た。
私はすぐ駆けつけた。 公はまだ路上に倒れたままでおられたが、躰(からだ)は血だらけで、脳が砕けて、まだピクピクと動いていた。
二、三日前に親しく聞いた公の悪夢を憶い出して慄然(ぞっ)とした。
【「大久保公の俤‥‥前島密」 佐々木克監修『大久保利通』講談社学術文庫】
前島密
国立国会図書館デジタルコレクション
小高の話も、前島の話も、偶然そうなっただけかもしれませんが、不思議なことではあります。
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