斉彬の西郷教育(3/3)教えずに考えさせる

渋谷薩摩藩邸周辺絵地図
(金鱗堂尾張屋安政四年改訂「東都青山絵図」 著者所蔵)


HOW→WHY、そのつぎは?

前回、島津斉彬が西郷隆盛を教育するにあたって、HOW(どのようにするか)に始まって、WHY(そうする理由はなぜか)にすすんだということを書きました。

史料に日付がないため、かならずそうだとは言いきれないのですが、私の経験から考えて、教える順番は、HOW→WHYだったはずです。

今回はその先の教育についてです。

西郷の友人だった重野安繹がこのような話をしています。

或時(あるとき)南洲の直話に、
「手前は始終水戸に使して、老公(水戸斉昭)の意見も知って居るが、老公の開港鎖港の論は、どう云う腹でなさると云うことを手前は知って居るか、どう見て居るか」
と、斯(こ)う順聖院(斉彬)が南洲にお尋ねになった。
「それは申上げずとも知れて居ります、申上げるにも及びますまい、チャンと分り切って居るではございませぬか」
「攘夷をすると云う考で居ると思うか、鎖港をする考と認めて居るか」
「左様でございます、是は固より疑うところ一点もないと存じます」
と言ったところが、順聖院は
「まだ其位のことか」
と言われたことがあった。
丁度其質問を受けた当時南洲が私に話したことがある。
それから南洲は始めて景山老公(斉昭)に何か深意のあることだと知ったと云う。
それは順聖院の見るところはチャンと定って居る。
老公は表に鎖港を唱えて居ても、内心はそうでない。
併し鎖港論を唱えなければ、当時の人心が落着かぬから、鎖港論を唱えて居るけれども、それは表面上のことで、深意があると云うことを始めて知ったと云う。
【重野安繹「西郷南洲翁逸話」 『重野博士史学論文集 下巻』】

(「西郷南洲翁逸話」は斉彬公史料第三巻にもあり。この部分は593頁)

斉彬が西郷に

「お前は水戸に使いに行って老公に会うから、彼の意見も知っているはずだが、それは開国か鎖国か」

とたずねたら、西郷が

「鎖国にきまっています、うたがいありません」

と答えたので、斉彬が

「まだそのくらいのことか」

とだけ言って、去っていったという話です。


西郷に考えさせる

ここでは斉彬は答えを教えていなません。

斉彬に「まだ其位のことか」と言われた西郷は自分で一生懸命考えて、水戸老公の真意を推測したはずです。

実は斉昭は、もはや開国やむなしと考えていましたが、これまで攘夷の先頭に立ってきただけに今更意見を変えることは出来ないので攘夷を主張していたのです。

松平春嶽の回想録『逸事史補』の中にそれがはっきりと書かれています。(読みやすくするため漢文部分を読み下し文にし、「 」を補っています)

老公(斉昭)、我(春嶽)に贈る書中に云う、
「外国人交際の道、最もよろしき事にてはなし。しかしながら、今の時勢いかんともすることあたわず。貴君(春嶽)には御少年の義にも候ゆえ、以来(今後)の御心得に申すべく候。
とても攘夷など行なわれ候事は出来がたく、ぜひ交易和親の道、相開くべし。その時は御尽力ならせられ候がよろしく候。
斉昭老年なり、攘夷の巨魁にてこれまで世を渡り候ゆえ、死ぬまでこの説は替えざる心得なり。貴君へ此の事申し入れる」
との書状あり。
これにて交易和親せねばならぬという事、攘夷論の行なわれざる事をしり給うは、さすがなる事と余は感賞せり。
【「水戸烈公の開国論」松平慶永『逸事史補』】

斉昭は春嶽に、

外国人と交際するのがベストだとは思わない、しかしこのご時世ではいたしかたない。

斉昭は老人で、これまで攘夷の親玉としてやってきたから死ぬまでこの意見を変えるつもりはないが、貴方はお若いので今後のために申上げておく。

攘夷などできるものではないから、ぜひ貿易を始めるようにして、それに協力するのがよい。

とアドバイスしたので、春嶽はそれに感心したと書いています。

斉彬はこのような老公の真意を見抜いていました。

しかしそれを西郷に説明することはせず、自分で気づくように仕向けているのです。

西郷はこれによって、相手の言葉ではなく真意を知らなければいけないと気づいたはずです。


教えない教育

(ここからはブログ主の経験談で歴史とは別の話になります。興味ない方は無視してください)

じつは私も同じような経験があります。

私は大学卒業後、ある銀行に就職しました。

新入行員で最初に配属されたのが、お金を預かる窓口業務です。まずは、仕事のやり方(HOW)を指導担当の女子行員から教わっていきました。

2年目に入ると上司の課長代理から、「自分のやっている仕事について、もっと効率的なやりかたはないかを考えて改善するようにしなさい。前の年と同じことをするだけなら君がいる価値はない」と言われました。

改善するためには、その仕事の目的は何か、なぜそのような処理方法になっているのかを理解せねばなならず、先輩たちにいろいろと聞いてまわったことをおぼえています。

するべきことを覚えたら、次はなぜそうしているのか(WHY)を意識して仕事をしろという上司の指導でした。

そして入行後7年たって3つめの職場に異動したときです。

取引先との面談の記録を提出したら「これではダメ」と言われて、課長からつき返されました。

どこが悪くてどう修正すればいいのかとたずねると、返ってきた言葉は「自分で考えろ」でした。

それから1週間、書き直して提出しては返される日々が続きました。

そのときは本当に大変だったのですが、今思い出すともっと大変だったのは課長の方です。

記録は早く部長に届けないといけないのですから、自分で修正すれば簡単ですが、それをせずに、部下が気づくまでじっと辛抱していたのです。

(もっとも、そういうことが理解できたのは自分が課長になってからで、それまでは冷たい上司だとうらんでいました。‥‥‥今では心から感謝しています)

この「教えない」教育は、私のいた銀行では一般的だったようで、退職後に話をした何人かの先輩から「俺も○○部(他部署)にいたとき、そうだったよ」と言われました。

自分の体験をふまえて言いますが、教えない教育は上司からすると手間がかかって大変な反面、部下は確実に成長します。


人は「育つもの」

もう一度最初の話にもどると、斉彬のエライ点は、西郷を矯正していないことです。

斉彬は西郷の持ち味を殺さないで、考えを深めるように指導しています。

これも私の銀行員時代の経験ですが、入行3年目に個人のお客様への営業で外回りをしていたことがあります。

ふだんは一人で動いていますが、重要なお客様(大口客です)にはときおり課長同行で訪問していました。

港区のある資産家のお宅を課長と訪ねたとき、お客様と課長のあいだで「若者をどう教育するか」という話になり、二人は「人間を育てるのは、植物を育てるのと同じだ」ということで、意見が一致しました。

どちらが言ったのかはおぼえていませんが、「人間は木と同じで放っておいても上に伸びていくものだ、だから上司がやるべきことは上に伸びるときに邪魔になるものを取り除いてやることなのだ」という言葉が心に残っています。

障害物があれば、木はそれをよけるために曲がってしまいます。

しかし上がひろがっていれば、まっすぐに伸びていくものだとの見解でした。

教えることと矯正して型にはめる事は別です。

自然のままだと大きく育つ木も、盆栽のように初めから型にはめて育てれば、何年たっても小さなままです。


キャベツはキャベツ、白菜にはならない

私は銀行から出向して、千葉県のある私立高校の校長を4年間つとめた経験があります。

その学校はルーツが農業学校だったので、普通科とならんで農業を教えるクラスがありました。

校長になって生徒たちを見ていると、あることに気づきました。

男女とも農業クラスの方が楽しそうな表情をしているのです。

不思議に思って、農業クラスを担任している先生に「先生のクラスの生徒たちは他のクラスの生徒よりもいきいきとして楽しそうに見えますが、それはなぜでしょうか?」とたずねました。

返ってきた答は、「生徒を野菜と同じように扱っている」ということでした。

担任の言葉を要約すると、

「野菜は品種ごとにそれぞれちがいがあります。

キャベツにはキャベツの良さが、白菜には白菜の良さがあります。

そしてキャベツを白菜のように栽培しても白菜にはなりません。

生徒への指導もそれと同じだと思っています。

つまりキャベツを白菜にしようとして一方的にこちらの考えを押しつけるのではなく、それぞれの生徒の持ち味を伸ばすような指導をこころがけています。」

ということでした。

「キャベツを白菜にしようとはしない」ことが、生徒の表情の違いに現れていたのです。

斉彬の指導も最初だけはノウハウを教えていますが、その後は西郷が自分で伸びるように仕向けています。

いつの時代の教育も、変わらない部分はあるようです。



 



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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