下馬評

従者はつらいよ

 前回もふれましたが、大名や諸役人が江戸城に登城するときは、大手門の橋の手前にある下馬所のところで従者の数をへらして、玄関に向かいました。

下馬所には「下馬」と書かれた高札が立っており、従者たちの多くはその近くに待機して殿様の下城を待つことになります。

老中や若年寄など幕府要職の従者だけは下の絵にある長屋内にて待機できますが、その他諸家の従者は家格も先着順もなく、入り乱れての待機となります。

ムシロを敷いているグループもいれば、地面にそのまましゃがんでいる者もいます。

この状態で、主人が退出するまで待機しなければなりません。

大名の登城日は月に3日ですが、幕府の役人は交代制をとるものの、毎日登城です。

登城時刻は老中が四つ(午前10時)、若年寄はそれより早い五つ(午前8時)で、下城は八つ(午後2時)が定刻でした。

つまり最低でも4時間から6時間は待機していたのです。


「式日大手登城の図(部分)」『徳川盛世録』(岡崎市立中央図書館蔵)


ちなみに雨天時でも蓑笠姿にて屋外待機でした、従者の仕事も楽ではありません。

「西丸下馬先の図」『徳川盛世録』(岡崎市立中央図書館蔵)


下馬所の風評

主人が城内にいるあいだ従者たちはひまですから、いろいろな話をして時間をつぶしました。

そこで交わされるうわさ話が「下馬所の風評」、略して「下馬評」です。

当事者ではない人たちがする話ですから信頼度は低いとはいえ、幕府役人の家来から各藩主の近侍までさまざまな人間が集まっているので、核心に迫るものもあんがい多かったようです。

明治25年(1892)から26年にかけて『朝野新聞』に連載された「徳川制度」には、下馬評についてこのように書かれていました。

さてその声々を子細に聴き分けんには、蛙鳴蝉噪(あめいせんそう:がやがやしゃべること)の中に容易ならぬ一種の予言を籠(こ)めたるも事々し。
一種の予言とは、役人の黜陟(ちっちょく:昇進や降格)などに関する風評にして、この風評はしばしばよく肯綮(こうけい:ものごとの急所)を射て貫けり。
(中略)
たとえば要路の役官に空位あれば、今度は誰殿こそ後任なるべけれといい、
また今度誰殿が所司代より御老中に栄進せし理由は云々(しかじか)なりと評し、
すでに就職すれば同列との議はかくなりと噂し、
また年号は幾日頃改元あるべし、
今度誰殿(諸大名:原注)の邸にて云々の騒動ありなど、
世の人の未だ得知らぬ先に下馬評に係ること不思議なり。
【加藤貴校注『徳川制度(中)』岩波文庫】


朝野新聞によれば、幕府の役人人事についての下馬評はよく当たっていたそうです。

くわえて、昇進した理由や同僚とのようす、さらには秘密にされているはずの改元日程や大名屋敷内のできごとなど、世の中に広まる前に下馬評にあがっていたのは不思議だと伝えています。


下馬評は貴重な情報源

世間に知られていない情報がいちはやく入手できるとなれば、インテリジェンス機関が放っておくはずがありません。

さきほどの「徳川制度」にはこうも書かれています。

かくありければ、南北両奉行は日々同心を下馬に派して、余所(よそ)ながらかれらの風評を聴き取らせ、仕儀によりては風聞書と称して詳細に談話の模様を書き取り、己の手許まで申し達せしめぬ。
諸大名の供も日々出勤の分は、この評を聞く便りあれど、三日(さんじつ:毎月の登城日)のほか登城せざる族(やから)は、これまた特に家来を派出して風聞書を作らしめ、重役の許に差し出さしめしとなり。
【前掲書】

現在警視庁が行なっている首都の治安維持は、江戸時代には南北二つの町奉行所が月交代で担当していました。

長官は大岡越前で有名な「南町奉行」と、遠山の金さんでおなじみの「北町奉行」で、いずれも現在の警視総監に相当します。

その両奉行が、配下の同心(刑事ですね)を毎日下馬所に派遣してこっそりと風評を聴き取らせ、重要と思われる件については詳細な報告書を上げさせていたというのです。

また、諸藩も登城日でない日にわざわざ家臣を派遣して下馬所の風聞書を作らせ、重役に報告させていたそうです。

現在に置きかえると、さしずめSNS上でとびかう情報を集めているようなものでしょうか。

最近のマスコミはSNSの話を転記しただけの「コタツ記事」(家でコタツに入ったままのように、社外に取材に行かないで書いた記事)が増えているそうですが、江戸時代は下馬所に足を運んでいただけマシかもしれません。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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