大名行列の挨拶
大名行列が出会ったとき
江戸時代は、さまざまなしきたりにしばられた社会でした。
なかでもうるさかったのが、「礼儀作法」です。
武士階級においてはこれによって身分の違いを分からせたので、さまざまな場面での「礼儀作法」つまり「どのようにふるまうか」が細かく定められていました。
大名どうしが出会ったときのルールも、とうぜん定められています。
念のために言っておくと、『暴れん坊将軍』のようなドラマや映画の世界とはちがって、大名が単独で出歩くことはありません。
特に江戸市中では少し出かけるだけでも、身分に応じた行列を組む必要がありました。
さらにその行列どうしが出会ったときには、どのように挨拶するかという細かな定めまであります。
旧幕臣の市岡正一が明治中期に江戸時代のようすを振り返って書いた『徳川盛世録』には、大名や役人が路上で出会ったときにとる行動をこのようにしるしています。
万石以上以下とも、日光御門主・三家・三卿に出逢いたるときは歩を止め駕を下りて礼をなす。
その法式先箱にて下馬下乗をなし、打物来たりたるとき腰を屈め、乗物間近くなりぬれば平伏す(国主等のごときは少しく違いありき)。
このとき万石以上・五千石高役人には、三家・三卿は乗物を下り歩を進めて会釈す(その歩を進むる身分によりて差別あり)。
万石未満・五千石高役人未満には乗物のまま会釈をなす。
江戸にて万石以上の面々、公家衆等に出逢いたるときは、横道に入り駕を後の方に向け居り。
【「途上礼式の次第」市岡正一『徳川盛世録』平凡社東洋文庫】
日光御門主というのは徳川家康を祀る日光山輪王寺の門跡のことで、歴代将軍の墓所がある上野の寛永寺貫主も兼務していました。
このポストには代々天皇家か宮家の出身者が就いていたため、その格式はきわめて高かったのです。
市岡によれば、諸大名や幕府の役人が路上で「日光御門主・三家・三卿」の行列に出くわしたときの対応はこのようになります。
「先箱」(行列の先頭にくる家紋のついた挟み箱)が来たら自分の行列をとめて、馬や駕籠をおりる。
「打物」(先頭から少しあとに続く槍や長刀)が来たときには、腰をかがめる。
「乗物」(行列の中央にある殿様の駕籠)が近づいたら、平伏する。
「紀伊家紅葉山予楽途中供連の図(部分)」『徳川盛世録』を加工
(岡崎市立中央図書館蔵)
上の図は御三家のひとつ紀伊家の行列に幕府の役人とみられる武士が出会ったときのようすです。
赤丸で囲ったのが紀伊藩主の乗った駕籠で、①の武士は駕籠が近づいたため地面に平伏し、②の武士は長刀が前を通っているので腰をかがめています。
相手が五千石以上の旗本や大名であれば御三家の方も駕籠からおりて会釈するのですが、どちらの武士も供の数が少ないので五千石未満と思われ、御三家は駕籠の中から会釈するだけです。
大名同士の出会い
これが御三家のような格式の高い行列ではなく、一般の大名ならまたちがった挨拶になります。
大名どうしが出会ったときの挨拶のようすが、三田村鳶魚が最後の広島藩主浅野長勲(ながこと)から聞き取った記録「浅野老侯のお話」に書かれていました。
道中で大名が行合いになることは、滅多になかったが、江戸では始終出会いました。
向うから行列を見ると、上杉弾正大弼様というふうに、先におる者が知らせる。
行き違う時に、引き戸の駕籠なら、半ばこれを引く。
打上げのは、駕籠脇が簾に手を掛け、それで目礼する。
駕籠は止めはしません。
どんな大名でも、行き会えばこういうふうにする。
相手が三家ですと、駕籠を下りなければならないのですが、この時は大概避けます。
【三田村鳶魚「浅野老侯のお話」『江戸百話』大日社】
大名どうしの場合は、御三家に出会ったときのように駕籠をおりて平伏するのではなく、駕籠を進めながら従者が駕籠の戸をあけて、大名は互いに目礼するだけです。
注意してほしいのは、「向こうから行列を見ると、(中略)先におる者が知らせる」「相手が三家ですと、(中略)大概避けます」と語っていることです。
相手がただの大名なら問題ないのですが、御三家であれば駕籠からおりなければならないのでそれは避ける、つまり向こうの方に見えてきた行列の主が御三家であれば、急いで道を変えて出会うことを回避していたというのです。
はじめにとりあげた市岡も、「江戸にて万石以上の面々、公家衆等に出逢いたるときは、横道に入り駕を後の方に向け居り」と書いていました。
「公家衆等」は「日光御門主・三家・三卿」をさすと思われますので、浅野老侯が「避けます」という相手と同じです。
具体的には脇道に入って、もといた道に背を向けることで気づかないふりをしていました。
このときに大事なポイントは、向こうから来るのが誰の行列なのかをすばやく見分けることです。
長くなるので、それについては次回に。
0コメント