読むより聞く方が面白い

オーラルヒストリー

 このブログでは歴史の話をするときに根拠となる史料をご紹介していますが、そのなかでよく取り上げるのが『史談会速記録』です。

これは明治中期以降に幕末・維新の生き残りの人から体験談を聞いたときの記録、つまりオーラルヒストリーです。

体験談ですからリアリティーがあって面白い話が多いのですが、歴史学者はたいてい軽視しています。

面白いのになぜ軽視するのかを不思議に思って、あるとき知り合いの研究者にたずねたら、「あれはB級史料です」といわれました。

日記は通常なら本人がその日に書くのでまず間違わないが、史談会の談話はかなり時間がたってから思い出して語っているので、記憶違いがけっこうあるため、「不確かな資料だ」というのです。

じっさい日本最初の文学博士で歴史学者の重野安繹(しげの やすつぐ)が講演でこんな話をしています。

重野は旧薩摩藩士で斉彬時代に庭方として仕え、昌平黌では舎長をつとめたほどの優秀な人物でしたが、在学中にトラブルをおこして奄美大島に流されました。

この時に同じく島流しにされていた西郷隆盛と親交を結び、ゆるされて藩に復帰した後も親しく交流していました。

その重野が講演で西郷の話をしたときに、こんなことをつけ加えています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、片仮名と一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています。原文はこちらの605頁)

総て談話は各人の記憶することを申し述べ、それを筆者が筆記するものにて、その記憶も各人同一なること能わず。
甲は此の事を覚え居て彼の事を覚えず、乙は彼の事を覚え居て此の事を覚えず等、同一事件にても互いに記憶の異同あるは誰人免れざることなり。
【「四一五 仝上(重野安繹演説筆記 名家談叢)」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

体験談は各人が記憶したことを語るので同じ出来事でも覚えていることが違う、したがって同一事件でも人によって言うことがちがうのは仕方がないというのです。

そうして重野は、同一事件で記憶が異なっていた例として、関ヶ原の戦いで石田方の猛将島左近と戦った黒田兵たちの話をとりあげました。


関ヶ原の島左近

島左近は石田三成の侍大将で、その勇名は天下に鳴り響いていました。

関ヶ原の戦いで石田軍とぶつかったのは黒田長政の軍勢で、死にものぐるいで駆け回る左近に総掛かりで向っていき、ようやくに討ち取ることができました。

天下が治まったのち、江戸の酒楼で黒田の家臣たちがあつまり、関ヶ原の戦いを回想したときのことです。

左近の気勢がすさまじく、左近一人に追い立てられて思わず逃げかけた時のことが今でもありありと目に浮かぶ、などと語り合っていました。

ところが、その時の左近のいでたちはどうだったかという話になると、ある者は「乱髪を振り乱していた」と言い、別の者は「そうではない、兜をかぶっていた」と言います。

鎧の色についても、「黒だ」とか「もえぎ色(うすみどり)だった」とか口々に言い立てて、結局わからずじまいだったという話です。

これは恐怖心で浮き足だってしまったからで、ちゃんと見極めることができなかったのも無理はないと重野は弁護しています。

一魁斎芳年『魁題百撰相 島左近友之』(国立国会図書館デジタルコレクション)


談話には間違いがあるが、無視すべきではない

そうしてこの話をこう締めくくっています。

すべての談話、何某が覚書、何某が聞書、又は老人話、故老物語の類いずれも其当時にものせしも、覚え違い心得違い聞違い等互いにあることなれば、観る者は其心をして彼と此とを引合せ取捨斟酌して判決を与うべし。
偏聴偏言は第一宜しからぬこと。
又一事一節の間違を以て、全体を棄るは尤も忌むべき所なり。
南洲は近世の豪傑、之に親炙せし人、各々其見聞したる所を、談話に筆記に著すことなれば、異同齟齬あるは当然の事。
然るを何某が話こそ実正なれ、何某は虚誕なれと、一概に判断するは極めて不可なり。
拙者が南洲話もただ一の参考に備えたるまでにて、固より全貌と云うにあらず。
さてこそ逸話と題したれ、逸は遺逸の逸、残り落ちたるを拾うの義なり。
【「四一五 仝上(重野安繹演説筆記 名家談叢)」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

重野が言いたいのは、すべての談話や覚え書き、聞き書き、老人の話などは、たとえ当事者であっても覚え違いや考え違いなどがあるので、そのつもりで他の資料と対比しながら取捨選択することが大事で、ちょっと間違いがあるからといってすべて没にしてしまうのは良くないし、Aさんが言うのは正しくてBさんの話はウソと決めつけるのもダメということです。

島左近の例でいえば、いでたちについての記憶はまちまちでも、黒田兵たちが逃げ出したくなるほどの暴れぶりだったことは共通しています。

歴史学者は「史料考証」といって、細かなところを詰めて真実を追究します。

このケースでいえば、「島左近は兜をかぶっていたのかいないのか」、かぶっていたら「どんな兜で前立てはどうだったのか」、などと細部にこだわるのです。

しかし、一般人が知りたいのは「島左近が関ヶ原で獅子奮迅のはたらきをしたというが、それはどんな様子だったのか」というところで、いでたちにはそれほど関心を示さないでしょう。

『史談会速記録』は「史談会」という集まりで維新の当事者が見聞したことを語った内容を、速記者がその場で書きとった記録です。

現代でいえば「文字おこし」ですが、当時は録音装置がなかったので、速記という手法をつかいました。

当然間違い(記憶違い、言い間違い、聞き間違い)もあります、しかし体験者の話はリアリティーがあり、読んでいて楽しいものです。


専門家は書かれたものを重視

冒頭の「B級史料」でもふれましたが、歴史学者のような専門家は紙に書かれたものは信用するが、語ったことはあまり信用しないという傾向があります。

重野は一部分が違っていても全体を否定するなと語っていましたが、そうでない例もあります。

たとえば、洋学史家の佐藤昌介氏は、作家吉村昭氏との対談でこう語っています。

――薩摩といえば、(高野)長英が宇和島を去り広島に渡り、そこから薩摩に行ったと、(高野)長運の『高野長英伝』ではなっていますが、ほんとうでしょうか。
吉村 それは、私も佐藤先生の説に賛成ですが、長英は薩摩には行っていない。洋学に深い理解をもった島津斉彬は江戸にいる。
佐藤 鹿児島史料編纂所で聞いたら、長英が鹿児島に来たと書いたのは、市来四郎という人なのですが、この人の書いたものはじつは信用できないといっていましたね。維新後に書かれたものです。
【「高野長英 謎の逃亡経路 with佐藤昌介」吉村昭『歴史を記録する』河出書房新社】

市来四郎は旧薩摩藩士で史談会の主宰者ともいうべき人物ですから、このブログでは彼の発言をよく紹介しています。

高野長英のことは、明治31年の史談会において、高野長英の曾孫(但し養女の孫なので血のつながりはない)高野長運が大量の長英の手紙を披露したときに、こう付け加えていました。

長英獄中に居る事六年、偶々火事があって焼けて、それから牢を逃げ出して方々へ隠れて歩いたのであります。
それから何処へ行ったか能く分りませぬが、其時でござりましょう、宇和島、薩摩へも行きました。
【高野長運「高野長英君行実附十九話」『史談会速記録第75輯』】

市来はこの発言をふまえて長英が鹿児島に来たと書いたのでしょうが、ここで注目したいのは鹿児島史料編纂所の人が、「この人(市来)の書いたものはじつは信用できない」と言ったことと、佐藤昌介氏がそれを肯定して「維新後に書かれたものです」と補強しているところです。

オーラルヒストリーを一段低いものとみているのがよくわかります。

歴史学者はオーラルヒストリーを全く無視しているのではありませんが、軽視していると思うのです。

ブログ主がオーラルヒストリーをよく取上げるのは、「分かりやすくて面白いから」です。

現代におきかえれば、「本を読むより、ユーチューブの方がてっとりばやくて楽しい」というイメージです。

と言いつつ、ユーチューブではなく、文字で発表しているのは自己矛盾かも。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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