因循姑息
いんじゅんこそく:古いしきたりや今までのやりかたにこだわって改めようとせず、一時のがれに終始すること。
幕末の再現?
参議院選挙で外国人問題が争点になってきたら、政府・与党が「外国人問題対応の組織設置」「外国人の在留管理強化」「外国人運転免許切り替えを10月から厳格化」など、あわてて外国人対策を言いはじめました。
その前には衆議院全野党が一致して提出した「ガソリンの暫定税率廃止」法案を参議院で潰した自民党の幹事長が、とつぜん「暫定税率は今年度で終了」と発言して驚かせています。
いずれの問題も急に発生したものではありません。
以前から指摘されていながら、これまで無視ないし反対しつづけていたものです。
それなのに、参院選で大幅に議席を失いそうな状況に追い込まれると、急に「対処する」と言いはじめました。
この感じは何かに似ているなと考えたら、滅ぶ直前の徳川幕府でした
つまり「姑息(こそく)」な対応に終始しているところがそっくりなのです。
「姑息」という言葉は現在では「ひきょう」という意味で使われることもありますが、本来の意味は「その場しのぎ」「一時のがれ」です。
腐れ行く幕府
幕末、通商拡大を要求する西欧列強と攘夷実行をせまる孝明天皇の間にはさまれて、どちらにもいい顔をしたい幕府は、その場しのぎの「姑息な対応」に終始して結局行き詰まってしまい、「大政奉還」つまり政権返上を申し出るにいたりました。
幕府がどうしようもなくなっている様子は誰の目にも明らかになっていたようで、英文学者で幕末期には幕府の儒官や外国奉行の従者として江戸・京都・長崎を行き来していた永峰秀樹は、当時の印象をこう語っています。
我々書生には、幕府の腐って崩れて行くことが段々とハッキリ見えてきた。
幕府の末路といった形勢が眼の底によく映ってきた。
今のこの政事は現在の幕府の人物では頽勢を盛返すことは望まれない。
どうしても一大人物が現われて、この捌きをつけなくっては、日本の立場が危ない。
薩長にもせよ、天朝にもせよ、大豪傑が傑出して治めなければ、世の中は闇になってしまうという風に、日本の立場から考えても幕府は残念ながら倒れなければならない。
当然倒れる時機が到来したのだ。
【永峰秀樹「腐れ行く幕府」同好史談会編『漫談明治初年』春陽堂】
永峰が期待する一大人物は薩長の下級武士や朝廷の下級公家の中から現われて、明治維新という形で日本を再生しました。
「幕府が腐って人心が離れている」と永峰はいいましたが、幕府中枢とやりあってきた島津久光もまさに同じことを感じていました。
驕慢と詐謀
明治26年の史談会で、島津家事蹟調査員の市来四郎が語った、幕府滅亡の原因をどのような言葉であらわせばよいかと島津久光にたずねたときの話です。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、カギ括弧と句読点をおぎなっています)
久光申されまするには、それは修史上肝要のことである。
拙者が考える処では幕府衰亡の源由は種々様々の論にも渉ろうけれども、これを文字と言詞に嵌めるには先ず「驕慢」と「詐謀」の四字より来たしたものと考える。
この四字よりして事実上に照らせば百端万緒に通ずるならんと思えり。
驕慢は則ち驕奢僭上、あるいは人を愚かにし、忠言を容れず、言道を塞ぎなど、人心に反したる事のみをなし、而して権謀術数を以て、人心に不平を懐かしめ、遂に怒憤となりたり。
(中略)
この言を以て考うるに、機運の傾きたるとはいえ、久光の申されたる如く畢竟驕慢の二字よりして、人を愚視軽蔑したると、事に当りて詐謀を用い瞞着(まんちゃく:だますこと)したるよりして情義離れ、遂に倒幕説の大勢を自ら醸生したかと思います。
これを以て考うれば、自ら醸し倒れたりというべきかと存じます。
【市来四郎「薩隅日尊王論の大勢及王家勃興の事実附三十一節」『史談会速記録 第8輯』】
久光はアジア諸国をつぎつぎと植民地にしている西欧列強から日本を守るためには、オールジャパン体制で対抗しなければいけないと考えていました。
それには朝廷と幕府の対立を解消し、幕府と諸大名が協力して防衛を強化しなければなりません。
久光は、「有力大名たちが協力するから、幕府はそのリーダーとなってほしい」と何度も働きかけましたが、幕府首脳部は「田舎者が何を言うか」「陪臣の分際で生意気だ」と威権をふりかざして聞く耳を持ちませんでした。
その結果として薩摩藩は幕府を見限り、倒幕に転じることとなったのです。
幕府がおごりたかぶって他者を愚か者と軽蔑し、忠告を聞かず、さらには発言もさせないようにしたうえで、自分たちが有利になるように人をあざむいてきたから、人々の不平がつのって怒りとなり、ついには討幕運動に発展したというのが久光の見解です。
それを市来は「自ら醸し倒れたり」と言い、永峰は「当然倒れる時機が到来したのだ」と表現ました。
『徳川盛世録』より「五位以下大広間出礼の図」(東京都立中央図書館蔵)
老中も幕吏もみなダメ
幕府の人材劣化は、内部の人間から見てもひどかったようで、明治27年の史談会では旧幕臣の坂本柳佐が旧薩摩藩士の寺師宗徳とこのようなやりとりをしています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
(寺師)それから到底幕府の本来の旗本や何かという者は、劇(はげ)しい世の中にあっては役立つ人のみは無かったですな―。
(坂本)左様、一人も無かったです。(中略)
(寺師)兎に角幕府の処置といえば、人物の無いという事が第一に立ちます。
けれども、人気を殺(そ)げて纏らなかったというが崩れの元であろうと思います。
(坂本)彼の頃に閣老参政と、その下に居る勘定奉行などが、彼方此方に政治を執ったらどうであったかと思われます。
(寺師)矢張り末年になっても――昔流儀の考えで――格式がどうであるとかいう調子で、下方が申立てる事も上では採用せんという弊があったですなー。
(坂本)その弊はありました。
藩主が閣老となって事を処するにも、多くは身分の家来の見込を採用して、政府役人の見込はよく行なわれなかったと思われます。
(寺師)そうすると、その人に見識が無いと言わなければなりませんねー。
【坂本柳佐「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(二次)附四十八話」『史談会速記録 第24集』】
現在の企業にたとえると管理職にあたる旗本たちも、前例主義だけでやってきたので、幕末という激動の時代に適応できる人材はいなかったようです。
さらに人の使い方においても、やる気をそぐようなことばかりで、まとまりがつかなかったと坂本は語っています。
幕府の屋台骨がゆらいでいるような状況だというのに、昔ながらの家柄優先人事を続けていたため、「下方が申立てる事」つまり現場の声は取り上げられませんでした。
また、老中は5~10万石の譜代大名がつとめますが、彼らは自分が連れてきた身分の高い家来の意見だけを聞いて、現場で担当している役人の提案は無視されました。
では、現場の役人はしっかりしていたのか?
14代将軍家茂の侍医で、明治になって初代陸軍軍医総監となった松本順(良順)は長崎でオランダ人医師ポンペに学んだ後、江戸に戻って西洋医学所頭取となりますが、そのころのようすを自伝にこう書いています。
(文久3年、1863年)予の江戸に帰るや、熟(つらつ)ら考うるに、世はようやく昔日の如くならざるに、幕吏は大概愚暗庸劣、共に語るに足らず。
やや材ありと見ゆる者も、小器にしてただ狡猾なるのみ。
真に歎ずるに堪えたり。
【松本順「江戸の蘭疇」小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』平凡社東洋文庫】
松本によれば、時代が激変しているにもかかわらず幕府の役人たちはほとんどが「愚暗庸劣」つまり「理解力のない愚か者」ばかりで、少しマシに見える人物がいてもそれは「小者でずる賢いだけ」なので、ほんとうに歎くしかない状態だったとのことです。
要するに譜代大名も旗本も尊大なだけで使いものにならない連中ばかりになったから、徳川幕府は自壊してしまいました。
現代におきかえれば、譜代大名は何代も前から続く選挙地盤と固定票にささえられて当選を重ねてきた世襲政治家、その下で権威を振りかざしている旗本は霞ヶ関の官僚というところでしょうか。
「姑息な対応」に終始しているところは、現代においても江戸幕府末期の伝統がしっかり受け継がれているようです。
20日はかならず投票に行きましょう。(都合が悪い方は期日前投票を!)
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