地図=科学技術力
地図はその国の科学技術の指標
地図を見ればその国の科学技術力のレベルがわかるといわれています。
というのも、地図をつくるためには精密な測量技術、正確な天体観測、高度な数学計算のすべてが必要となるからです。
よく知られているように伊能忠敬は寛政12年(1800)56歳のときの蝦夷地測量を皮切りに、17年間かけて日本全国を測量し、きわめて正確な日本地図を作りあげました。
伊能忠敬が作成した地図について、嘉永6年(1853)に来航したアメリカ東インド艦隊提督ペリーの『日本遠征記』には次のように書かれています。
日本人は土木工学の知識をある程度そなえ、数学、機械工学および三角法についてもいくらか知っている。
そのため、非常にみごとな日本地図も作成されている。
彼らは高度計でいくつか山の高さを測り、立派な運河も建設し、水車や水力旋盤も作っている。
また日本製の時計を見ると、彼らがいかに器用で巧みであるかが分かる。
【M.C.ペリー F.L.ホークス編著 宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記 上』角川ソフィア文庫】
伊能の地図に感心したのはペリーだけではありません、英国海軍も同様でした。
文久元年(1861)に英国のアクティオン号が砲艦三隻を伴って来航し、海図作成のために日本沿海を測量したいと幕府に要請しました。
というのも、英国では19世紀初期から、英国海軍水路部が世界の海をくまなく網羅した海図の作成に着手していたからです。
幕府はこれを承諾しますが、立会人として英艦に乗り込んだ組頭荒木済三郎は、作業を早く終らせるため伊能小図(実測図の縮小版)をアクティオン号艦長ワード中佐に見せました。
地図を見た英国側はその精度に驚き、地図をもらい受けることで測量を省略して引きあげています。(興味のある方は、『日本の測量史「近世の水路測量・航法技術」』の「外国艦船による水路測量」をご参照ください)
余談ですが、このときに幕府が渡した「伊能小図の写し」は、英国海軍水路部からグリニッジの国立海事博物館に移され、現在は英国国立公文書館に保管されているそうです。
伊能地図は努力の結晶
伊能忠敬が行なった測量の手法は、慶安3年(1650)に3代将軍家光が江戸でオランダ人に臼砲の試射をさせたときに伝わったのではないかと考えられます。
というのも当時のオランダ商館長の日記に、
7月10日:「火術師(=砲手)は前述の筑後殿の使用人たちに測量を指導することに従事している」
7月27日:「火術師スヘーデルは皇帝のある委員のために市外の野原で一区画の測量をした」
の記述があるからです。【佐藤賢一「一七世紀後半の日本における数理科学 和算・暦学・測量術の軌跡」群馬県立歴史博物館『すごいぞ!江戸の科学 図録』】
7月10日の記述に「筑後殿」とあるのは大目付井上筑後守政重のことで、彼は幕府の宗門改役としてキリシタンを迫害する一方で、オランダ人と交流して西洋の学術知識の入手に力を入れた不思議な人物です。
おそらく、このときに伝わったオランダの測量手法が「阿蘭陀流町見術(おらんだりゅうちょうけんじゅつ)」として体系化され、各地に伝えられたものと思われます。
伊能忠敬の測量手法も基本的にはこの阿蘭陀流で、目新しいものではなく、すでに一般化していた導線法(どうせんほう※1)と交会法(こうかいほう※2)によるものです。(参考:「伊能図」の測量技術 )
※1 地点Aと地点Bに目印となる梵天(白布を先につけた長い竹竿)を立て、AB間の距離とAからBへの方位を測定する。次に地点Cに梵天を立て、BC間で同様の作業を繰り返すが、次第に誤差が出てくるので、※2で修正する。
※2 遠くの山頂などを目標物としてABCからの方位を測定する、方位が正確なら1点で交わるはず。(目標物を多くするほど誤差を修正しやすくなる)。
伊能忠敬の真骨頂は、西洋から見ればひと時代前の手法をもちいながら、愚直なまでに丹念に測定し、さらに天体観測を加えて慎重にデータを検証したところにあります。
この努力によって地図の精度は飛躍的に高まり、西洋人を驚かす精緻な地図が完成しました。
「江戸の技術力」で紹介した、機械を使わず道具も不十分な中で絶妙な作品を仕上げる職人たちと一脈通じる、まさに日本人の職人技が作り上げた地図といえましょう。
国立科学博物館に展示されている伊能忠敬時代の測量器具(ブログ主撮影)
地図文化が大衆に普及していた
元国土地理院長で測量・地図のスペシャリスト星埜由尚氏は雑誌のインタビューでこのように語っています。
忠敬らが当時の持てる技術と緻密な作業で優れた地図を作成したことが賞賛されるべきはもちろんですが、こうした測量技術や地図の文化が、日本全国の津々浦々にまで浸透していた事実も特筆すべきことでしょう。
西洋や中国では早くから測量技術が発展していましたが、そこに触れていたのは一部の技術者や貴族レベルに限られた話で、一般大衆にまで広がっていたわけではありません。
ところが、日本の江戸時代には道普請や川普請・検地や土地の境界争いなどのため、村々の名主・庄屋クラスには測量技術がしっかり浸透していました。
今も旧家のお蔵には当時使われていた測量道具が残っていることがあります。
地図についても同様です。
江戸時代には「道中図」という道路地図と観光情報の要素を兼ね備えた絵図がさかんに発刊され、お伊勢参りなどの際に一般民衆が買い求めたり、参勤交代で江戸に来た人々がおみやげに購入したりしていました。
今でいう住宅地図のようなものもあり、一般人がそれを活用していたのです。
このように、大衆に広く深く根ざした地図文化というのは、世界的にも稀有なことです。
なにより江戸時代の民度の高さを示すひとつの証左といえますし、こうした文化が、日本が明治以降に近代化していくうえでの下地になっていたことは間違いないでしょう。
【星埜由尚「江戸の測量術は蓄積された技術と根気の賜物」『江戸の理系力』洋泉社MOOK】
『江戸庶民の学力(その2 数学)』でも書きましたが、ヨーロッパでは一部の学者や専門家が独占している学問・技術が、江戸時代の日本では一般的なものとして人々の間に広く知られていました。
算額に見られるように庶民がゲームとして数学問題を解いたり、田舎の庄屋が土地の測量技術を習得していたり、人々が地図を手にして観光を楽しんだりすることができたというのは、星埜先生の言うとおり「民度の高さ」をしめすものにほかなりません。
日本が開国してわずか半世紀で西洋に追いつけたのは、率直に言ってしまえば「国民のレベルが高かった」からできたのです。
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