江戸庶民の学力(その1 国語)

短期間で近代化に成功した唯一の国

 ここのところ、徳川幕府の末期と現在日本の政界をくらべるテーマで書いていましたが、暗澹たる気持ちになるばかりなので話題を変えてみます。

昨年『日本の産業革命と薩摩』という本を出したら、いくつかの団体からそのテーマで講演をしてほしいとの声がかかりました。

この本は「鹿児島が日本の近代化にいかに貢献したかを外国人向けに説明して」という依頼を受けて書いたものですが、ひとつ意識して強調したことがあります。

それは、「日本が短期間に近代化に成功したのは、外国のコピーが上手かったからではない」ということです。

たとえば、明治9年(1876)に日本に来たドイツ人医師のベルツは、到着早々にこのような手紙を書きました。

あなた方は、大体次のようにお考えになって然るべきでしょう――日本国民は、十年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれ中世の騎士時代の文化状態にあったのが、昨日から今日へと一足飛びに、われわれヨーロッパの文化発展に要した五百年たっぷりの期間を飛び越えて、十九世紀の全成果を即座に、しかも一時にわが物にしようとしているのであると。
【トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』岩波文庫】

ベルツは日本の文化レベルは西洋の中世と同じだとみなし、日本はヨーロッパが500年かけて発展した成果を一度にすべて手に入れようとしていると考えていました。

この、「日本はヨーロッパより500年遅れていたが、西洋文明をコピーしたので一足飛びに近代化できた」という考えはヨーロッパ人には魅力的でしょうが、間違っています。

19世紀に西欧列強がアジア・アフリカを次々と植民地にしていったころ、西欧と同じ近代工業国家になろうとした国はいくつもありました。

たとえばエジプト、トルコ、清(中国)などがそうです。

しかし短期間で近代化に成功したのは日本だけでした。

その理由をひとことで言えば、「日本は国民の知的水準が高かった」からです。


江戸時代の識字率は世界最高水準

国民の知的水準ないし教育レベルを示す代表的な指標のひとつが「識字率」、つまり全人口のうちにしめる読み書きできる人の割合です。

イギリスの社会学者ドーアは、1970年(昭和45)に出した著書でこのように述べています。

疑う余地のないことは、1870年(明治3)の日本における読み書きの普及率が現代の大抵の発展途上国よりかなり高かったということであろう。
恐らく当時のヨーロッパ諸国と較べてもひけをとらなかっただろう。 (中略)
 読み書き能力には幾つかの政治的意義がある。既に江戸時代において、高札が支配者と人民との間のコミュニケーションの手段として一般に用いられていた。1870年の日本では文字で書いた布告による行政が社会の底辺まで届くことができたわけである。 (中略) 
基礎的な読み書きが充分に普及していたからこそ、新しい布令、新しい土地登記制度、新しい戸籍制度の実施が可能だったのである。 
【R.R.ドーア著 松井弘道訳『江戸時代の教育』岩波書店】 

江戸時代の日本人の識字率は100年後の発展途上国よりかなり高く、その当時のヨーロッパ諸国並みかそれ以上でした。

明治新政府が急速に社会改革を行なえたのは、文字による布告だけで日本全国津々浦々まで新制度を行きわたらせることが可能だったからだ、というのがドーアの見解です。

豊国『寺子屋書初』(部分:国立国会図書館デジタルコレクション)


うひとつ強調しておきたいのは、識字率に男女差がなかったことです。

これは東洋の他国とは大きく異なる点で、日本では女性は男性と同様に寺子屋で学んでいましたし、女性の先生も珍しくありませんでした。

上の浮世絵は寺子屋の書き初め風景ですが、生徒は男女入り混じっていても先生はすべて女性!

嘉永6年(1853)に来日した米国東インド艦隊提督のペリーは、日本女性の教養の高さに驚いています。

下田でも箱館でも印刷所を見かけなかったが、本は店頭に並んでいた。
たいていは安価な初歩的実用書、通俗物語や小説だった。
人々は全般的に読み方を習っており、情報収集に熱心なので、明らかに本の需要は大きかった。
教育は帝国中に普及しており、中国とは異なって、日本の女性は男性と知的進歩を共有しており、女性特有の才芸に秀でているだけでなく、日本の文学にもよく通じていることが多い。
アメリカ人が交流の機会を得た日本の上流階級の人々は、自国の事情に精通しているばかりでなく、諸外国の地理、物質的進歩、近代の歴史についてもいくらか知っていた。
日本人はよく質問をしたが、この国の孤立した状態を考えると、彼らの情報はじつに驚くべきものであった。 
【M.C.ペリー F.L.ホークス編著 宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記 下』角川ソフィア文庫】 

またペリー来航の2年後となる慶応元年(1865)にトロイ遺跡発掘で有名なシュリーマンが世界旅行で清(中国)の次に日本を訪れていますが、彼は日本では男女とも読み書きができることにおどろいて、こう書き残しています。

教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。
シナも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。 
【ハインリッヒ・シュリーマン著 石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫】 

時代劇で高札の周りに人が集まったり、瓦版を欲しがったりするのは誰でも文字が読めたからです。

日本人にとっては当たり前のように見えるシーンですが、当時の世界を見渡せばこれは当たり前の風景ではありません。 

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を審査したユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)は、世界遺産に値する理由をこう述べています。

九州・山口地域を中心とする一連の産業遺産群は、西洋から非西洋国家に初めて産業化 の伝播が成功したことを示す。19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、日本は製鉄・鉄鋼、 造船、石炭産業を基盤に急速な産業化を達成した。一連のサイトは1853年から1910年ま でのわずか 50 年余りという短期間でこの急速な産業化が達成された3つの段階を反映し ている。
(以下略)
【「我が国の推薦資産に係る世界遺産委員会諮問機関による 評価結果及び勧告について」平成27年5月4日 内閣官房産業遺産の世界遺産登録推進室 (下線はブログ主)】

1853年にペリーが来航し1854年に日米和親条約締結、その50年後の1904年に日露戦争がはじまり、翌1905年には日本の勝利でポーツマス条約が結ばれました。

開国からわずか50年でヨーロッパの大国ロシアに勝利するまでになれたのは、単にモノマネが上手かったからではありません。

学力の基礎は「読み書きそろばん」、次回は「江戸庶民の数学力」についてご説明します。









幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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