幕府の真の実力者は?

老中よりも奥右筆

 幕末に若年寄を務めた永井尚志は、江戸幕府を本当に動かしていたのは老中ではなく、部下の奥右筆だったと語っていました。

奥右筆の職務は、「諸役人・諸大名などから老中・若年寄へ提出される書類や届けを整理し、また両者の決裁を要する諸願書などについては前もって先例を調査・検討し、場合によっては、その諮問に応じて当否の判断を提示すること」【深井雅海『図解 江戸城をよむ』原書房】でした。

一橋慶喜に小姓として仕えた旧旗本の村山鎮(むらやま まもる)は、著書『大奥秘記』の中で、奥右筆についてこのように書いています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています。原文はこちら

奥御右筆組頭、四百石、御役料二百俵で、二、三人あって、奥御右筆を指揮し、御老中から万事相談を受け、御触れから御書付、仰せ出され、そのほか枢密の事に関し、なかなか権力のあったものでした。
その上諸侯は皆頼みといって、種々の指図を依頼して、諸藩の留守居などは、日々出掛けて色々な事を頼み、表立つ事は大目付だが、大概の願いは奥御右筆で済むのだそうです。
老爺の親戚も勤めた事があったが、それは盛んなもので、御老中、若年寄からでさえ、盆暮に遣い物があって、使者が来るくらいだから、他の諸侯は何のためだか、頻りと御機嫌をとる(の)です。

その様子はなかなか三千石以上の御役人でも及ぶものでない。

前(に)申しましたが、今の法制局長官と内閣書記官長どこ(ろ)ではないのでした。

【村山鎮「大奥秘記」『新燕石十種 第5』 国書刊行会 大正2年】

村山は組頭の石高が400石と書いていますが、これが平の奥右筆であれば200石でした。

しかし各方面からの付け届けがあって、組頭の実収入は3000石以上とのことなので、部下たちも相当な収入を得ていたものと思われます。

じっさい、東大史料編纂所の山本博文教授の『学校では習わない江戸時代』には、このような話が紹介されています。

十八世紀後半、田沼意次が老中であった時代は、昇進するにも多額の費用がかかった。
前もって関係者に贈り物をして近づき、昇進が実現するとかなり多額の礼金を進呈した。
大番士から小普請の組頭に昇進した知行三百石・蔵米百俵の旗本森山孝盛は、自分の養子の実家で田沼とも縁戚関係のある菰野(こもの)藩主・土方雄年(ひじかた かつなが)に二百五十両、推薦してくれた上司の大番頭・杉浦正勝に七十両、動いてくれた奥右筆・丸毛金次郎へ二十五両もの礼金を贈っている

これは(森山の)年収をはるかに超える額であり、蔵宿から借金をして調達した。

【山本博文『学校では習わない江戸時代』新潮文庫:下線部はブログ主】

ここで面白いのは礼金の贈呈先で、紹介者の土方、推薦者の杉浦、に加えて奥右筆の丸毛に渡していることです。

このなかに決定権者は含まれていません、というか真の決定権者は「動いてくれた」奥右筆の丸毛だったと推測されます。

現代の政治に置きかえれば、国会議員は紹介者にすぎず、真の決定権者は官僚だということですね。

諸侯(大名たち)が贈り物をしていたのも、頼み事をする際の「取扱手数料」に加えて、何かあったときに有利な扱いをしてもらうための「保険」として、盆暮れの付け届けを欠かさなかったのでしょう。

それにしても上司である老中や若年寄からも遣い物(贈答品)が届くというのは、なかなかのことです、現代の官僚はどうなのでしょうか?

周延『千代田の御表 流鏑馬上覧』(部分:国立国会図書館デジタルコレクション)


老中直訴は失敗、下の掛員を説くべきだった

幕府を動かしていたのは老中ではなくその部下の奥右筆である、ということを体感した人物がいます。

幕末”三舟”のひとり、槍の達人高橋泥舟です。(あとの二人は勝海舟・山岡鉄舟)

泥舟は文久3年に京都にいたとき、浪士組の”取扱”(=組織の長)となって、彼らを江戸に連れ帰るよう命じられました。

この浪士組というのは、家茂将軍上洛の護衛という名目で清川八郎が江戸から連れてきた集団ですが、京都に着いたら清川が「尊皇攘夷のために来た」と言い出して、それに反発した近藤勇たちが抜けたあとの集団です。

無頼漢ぞろいなので幕府の役人では手におえず、京都から帰そうとして、武芸者の泥舟にその引率を命じたというわけです。

泥舟はそもそも浪士組の結成というプランの時から反対しておりこの連中を嫌っていたのですが、在京の老中板倉勝清(いたくら かつきよ)が泥舟を”浪士取扱”に任命しました。

泥舟がこれを拒否していたところ、家茂将軍からじかに命じられてしまったため、しかたなく取扱となって浪士組を江戸に連れ帰ります。

江戸に戻った泥舟はただちに江戸にいる老中の水野忠清(みずの ただきよ)に異動を申し出ますが、一向に承認されず押し問答が続きました。

明治34年の史談会に出た泥舟がそのときのことをこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

ところが、東京(江戸の言い間違い)に居ります即ち留守居の老中というもので水野和泉守(忠精)、この人は板倉(勝静)と極く仲の悪い老中で、それで此方(=江戸)へ来まして、私の見込のことを申立てると一向採用がない。
私が老中に迫りまして事を処そうといたしました。
私は師範であって、武の方にばかり勤めをした者が俄に廟堂の方に加わったのですから、少しも内の様子が知れず閣老に無闇とブッつかったのでございます。
談判に及びましたところがどうしても採用がない、(中略)それは私が廟堂が分からないから水野を説いたのですが、後にて考えて見ると老中を説くよりかモッと下の掛員を説けば宜かったのです。
その下役人を説かないで、老中にブッつかったからいけなかったのです。
【石坂周造「清川八郎氏の事蹟及び石坂君共に国事に尽力せられし実歴附九節」『史談会速記録 第101輯』】

高橋泥舟という人は槍の師範として武道ひと筋でやってきた人物ですから、政治の世界は知りません。

そのため責任者である水野老中に何度も直談判に及んだのですが、うまくいきませんでした。

「後にて考えて見ると老中を説くよりかモッと下の掛員を説けば宜かった」「下役人を説かないで、老中にブッつかったからいけなかった」というのは、あとから誰かに幕府政治の実態を教えられたのでしょう。

なんにせよ、江戸時代においても政治を動かしていたのは、「下役人」だったのですね。

今の日本も下役人である官僚に操られない国になってほしいものですが、そのためには国民がしっかりした政治家を選ぶことが必要です。

まずは国民が意識を変えないと、日本の政治はいつまでも江戸時代のままです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

0コメント

  • 1000 / 1000