経営者には「器量」が必要
島津家23代
最近のニュースでは某テレビ局がさかんに取り上げられています。
そのなかで気になったのが、退任したM社長をはじめとする経営者のことです。
このブログは幕末の島津家をテーマにした歴史ブログなので、この問題を経営者の資質という観点で島津家の事例と比べてみました。
このテレビ局を含む企業グループをひとつの藩と考えれば、グループ内企業の社長はいわば藩の家老にあたります。
藩主は世襲ですが、家老は上級武士の中から選ばれます。
家老にどのような人物を選ぶかについては、以前にも「家老の条件は?」で取り上げたことがありますが、そこで紹介した島津家23代宗信(むねのぶ)の話をもうすこしくわしくご紹介します。
江戸時代の島津家は「島津に暗君なし」という言葉がしめすように、代々優秀な藩主が続きました。
その中で最高の名君といわれるのはもちろん28代島津斉彬ですが、宗信も旧薩摩藩士の小牧昌業に「治世以来の最も名君」【『薩藩史談集』】といわれたほどの人物でした。
しかし22歳で早逝したため藩主在位は4年たらずと短かく、肖像も伝わっていないため、その名前は鹿児島でもあまり知られていません。
宗信は享保13年(1728)に、22代(藩主としては5代)継豊(つぐとよ)の長男として生まれました。
翌14年(1729)に継豊は8代将軍吉宗からの強い要請で、吉宗の養女竹姫を正室に迎えますが、この結婚の条件として竹姫に男子が生まれても世継ぎとはしないという取り決めがなされています。
つまり幼いころから薩摩藩の藩主となる教育を受けてきたわけで、これは斉彬と同じです。
宗信は短い治世ではありましたが、家臣の肥後半蔵が『古の遺愛(いにしえのいあい)』という宗信の言行録を書き残したことによって、その事績をうかがうことができます。
その中に家老を選ぶ基準を語ったものがありました。
家老は器量で選ぶ
これは現代の企業において、社員の中から誰を役員に昇格させるかを考えるときの参考になる話です。
分かりやすくするため、一部意訳を加えて現代文に直してみました。
(宗信治世の)ある時一人家老の欠員がでたことがあった。
その欠けを補おうとされて、他の家老たちを呼んで「家臣たちのうちに誰か適任者はいないか?」と質問されたが、誰もふだんから考えていた者がおらず、「引き取って考えさせて下さい」と言って退出した。
鎌田典膳政昌は体調が悪くてその日出仕していなかったため、後日鎌田をひとり呼んで前の質問をした。鎌田はただちに「誰それが適任です」と答えたので、「汝はどういう理由でそう言うのか」と重ねて質問された。
(鎌田は)「誰それは、どれほどややこしい仕事であっても流れるように手際よく処理できますので、適任だと存じます」と答えた。
これを聞いて、
「汝は同僚たちと違い普段から考えていたようで、即答できたのはその職務に恥じないところだ。
しかし、私が問うているのは“器量”だが、汝が答えたのは“働き”だ。働きで人を任用するのは一般の役人のことであって、家老を選ぶ基準ではない。
家老は万人の上に立って一国の政を行う職なので、黙ってそこにいるだけで人々が信服して手本とする程の器量がなくては、どうしてその任に堪えられようか。
ただ働きがすぐれているからといって、推薦するようではいけない」とおっしゃったので、鎌田もそのとおりだと承服した。
【「古の遺愛 異本ニ明君行録とあり」『鹿児島県史料 名越時敏史料三』342頁】
周延『千代田の御表 御流レ』(部分:国立国会図書館デジタルコレクション)
某テレビ局では、退任に追い込まれたM社長はヒット番組を連発したことで社長に抜擢されたようです。
つまり「働き」で社長にえらばれたわけです。
べつの言い方をすれば、企業の収益を増やすのに貢献したことが評価されたのです。
つまり損得という物差しでえらばれた人物でした。
これに対し宗信が求める器量というのは、「人としての器の大きさ」つまり「人間性」です。
働きでえらばれた人物なら物事を損得で判断するでしょう。
いっぽう器量でえらばれた人物は損得ではなく、善悪で判断すると思います。
そう考えると、今回の事件は「企業は経営者をどのような基準でえらぶべきか」という問題を投げかけているような気がします。
ちなみに、上の鹿児島県史料にある原文はこうです。
或時ひとりの老臣の不足せしことあり、その闕をば補い給わんとて、国老の衆を召して群臣誰か其任にかなうべきものぞと問せ給いけるに、何れもかねてその覚悟やなかりけん、退きて愚案をめぐらし候わんとてまかられけるときに、
鎌田典膳政昌は聊(いささ)か身にいたわることありて出仕なかりければ、後の日に政昌をばひとりめしてまた前のごとく問せ給いける、
政昌畏りて何某こそその任にはかなうべきものにて候と、少しも猶予せる心なく申上げられければ、汝何の見る処ありてかくはいうぞと、重ねて問せ給いけるに、
別の儀にては候わず、いかなる職務の煩わしきをも弁え候ことは、水を決(わきまえ)るがごとし、是をもてその任に勝(た)えなんことをしれりと対(こた)え奉られけるを聞こし召し、
汝は同役どもと違い、かねてその覚悟もありと覚て問つるままにこたえけるこそ、その職にも恥まじきものなれ、
されど我が問える処は器量なり、汝がこたえる処は働きなり、働きをもて人をとり候は、凡百の有司のことにて家老のわざにては候はず、家老は万民の上にたちて一国の政を行える職なれば、口に択(えら)ばん言葉なく、身に択ばん行いなくて、人の矜(つつし)み式(のっと)るほどの器量なくてはいかでその任には勝へ候べき、
ただに働きの勝れたればとて薦め挙るようやあるとの給いてければ、政昌も理に服しぬ。
原文の注には家老に欠員が生じたのは寛延元年(1748)とありますから、これは宗信が21歳のときの話のようです。
当時の年齢は数え年なので、現代になおすと宗信が二十歳のときのできごとになります。
「島津に暗君なし」といわれたのがよくわかるエピソードです。
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