御所にお参り
外郭九門
初詣は神社にお参りするというのが一般的です。
ところが神社ではなく、天皇がお住まいの御所に何万人もの人々がむらがってお参りをしたという出来事がありました。
今回はその話をご紹介します。
現在の京都御所は京都御苑という緑あふれる公園の中にありますが、下の地図のように江戸時代は御所のまわりには公家や宮家の屋敷が立ち並んでいました。
その屋敷街の切れ目となる通路部分に9つの門が設けられており、御所の外郭部にあたることから総称して「外郭九門」と呼ばれます(下図のマルで囲った門)。
元治元年(1864)の禁門の変では、この外郭九門、特に蛤御門(黄色のマル)で会津・薩摩などの守備兵と長州兵の激戦が繰り広げられました。
この九門ですが、ふだんは誰でも出入りすることができたようです。
幕末に京都所司代をつとめたのは桑名藩ですが、旧桑名藩士の加太邦憲(かぶと くにのり)が大正6年の維新史料編纂会でこのように語っています。
広く御所と申しますのは外廓に九つの門がありますから、これを九門内と申します。
又一名御築地(おついぢ)内と申します。
此処に宮家を初め公卿方が半分ほど住んで居られました、丁度城に比しますと士族屋敷と云う有様で、一つも空き地は無かったのであります。(中略)
文久三年の五月、初めて諸藩へ警衛を命ぜられ、各藩一体に兵を出しまして門内に番所を設け之を守りましたけれども、門内通行は四民共に自由でありました。
九門の外廓には特に塀と云うものはありませぬ、縉紳の邸宅の表裏の塀が自然に九門内外の境界になって居ったのであります。
九門内北に寄り皇居がありまして筋塀をもって周囲を環らしてありまして、之に六つの門があります、故に之を六門内と申します。
【加太邦憲「桑名藩京都所司代中の事情」より「禁門の事」『維新史料編纂会講演速記録一』続日本史籍協会叢書 マツノ書房復刻】
つまり九門内というのは公家や宮家の屋敷街なので、文久3年(1863)5月に各門の内側に番所が設けられて警備兵が置かれたものの、だれでも自由に通行できました。
九門内に対し、六門内というのは天皇のお住まいである御所になります。
当然ですがこちらは筋塀で囲まれて、一般人が入ることはできません。
御所の外郭九門(丸印、黄色は蛤御門:西四辻殿蔵版京都絵図より)
御所御千度参り
この御所が神社のような信仰の対象になったのは天明7年(1867)のことでした。
藤田覚東京大学名誉教授の著書『幕末の天皇』にその時の様子が書かれています。(一部文中の漢数字をアラビア数字に変えています)
それは、天明7(1787)年6月7日から始まった。
その日、御所を囲む築地塀(ついじべい)の周り───1周すると約12町というから、およそ1300メートルほどになる───を廻る人の姿が、一人、二人ちらほらと見受けられた。
ある記録によれば、どこからか老人が一人きて、御所の周りを廻る「御千度(おせんど)」をしたのがその発端だという。
(中略)
御所の周りを廻る人の数は、日を追って増え、さきの『杉浦家歴代日記』によると、6月18日の前後4、5日間には、とうとう1日に約7万人にまで膨れあがったという。
中原師武(なかはら もろたけ:公家、当時の様子を書いた日記をのこした)は「夥(おびただ)しい」と表現するだけで、具体的な数字を記していないのでよくわからない。
ここらあたりが人数的にはピークだったようで、6月28日頃にはようやく減ってきて、日によって多少の増減はみられてものの、しだいに終息していった。
しかしおよそ2ヵ月たった9月2日になっても、完全には終わらず、なお御所の周りを廻る姿がみられたようである。
【藤田覚『幕末の天皇』講談社学術文庫】
同書には、お参りの様子もくわしく書かれています。
まずはお参りの場所から。
御所東側の日御門(ひのごもん)通りの築地を南に向かって歩くと日御門に出る。
さらに進むと角になり、そこを右に曲がり塀に沿って真っすぐ行くと、築地塀が引っこむように屈曲し、そこに南門がある。
南門の前面には敷石があり、その前に少し低い柵の垣根がしつらえられている。
この南門は、平安時代の内裏でいえば建礼門(けんれいもん)に相当する門である。
その門から真北に相対して正門である承明門(しょうめいもん)があり、その真北に御所の正殿で、もっとも重要な殿舎である紫宸殿(ししんでん)が位置している。
【藤田 前掲書】
南門というのは上にあげた地図(左が北)で赤い四角で囲った部分で、その上部に書かれている門が日御門になりますから、人々は御所の周囲を時計回りに廻っていたようです。
お参りのしかたはこうです。
築地塀を廻った人々は、この南門の前に着くと柵の外で立ち止まり、懐(ふところ)から取り出した銭を南門前面の敷石に投げいれ、南門から真北の紫宸殿に向け手を合わせ、何事かを念じながら拝礼した。
なかには、願いごとを書いた色紙で銭十二枚を包み投げいれる者もいた。
現代の初詣の光景を思い浮かべるとピッタリくるのではないか。
南門と柵に囲まれた敷石部分を、大きな賽銭箱(さいせんばこ)に見立てればそれでよいわけだから。
寺院の本尊、神社の祭神に向かって賽銭を投げ、願いごとを念じながら深々と頭を垂れる拝礼のようすと、なんら変わるところはないのではないか。
天皇を神仏に見たてたにほかならない。
【藤田 前掲書】
御所を拝む民衆(『戊辰戦記絵巻』より)
歴史を変えるきっかけとなった祈り
冒頭に書いたように、現在の京都御所の周りは広い通路になっていますが、江戸時代はそこに公家たちの屋敷が立ち並んでいました。
何万人もの人が詰めかけたのでは、さぞや混雑したことであろうと思われます。
では、この人々は何をお祈りするために集まってきたのでしょうか。
原因は「天明の大飢饉」です。
天明3年(1783)7月に浅間山が大噴火して大量の火山灰を放出、一部は成層圏にまで達して日光をさえぎったため全国的に異常気象となり、農業は大被害をうけます。
米どころである東北地方はそれまでも不作が続いていたため、特にひどい状況におちいりました。
農村では餓死者が続出し、生き延びて農村からにげだした農民たちが流入した都市部は治安が悪化、天明7年(1787)にはとうとう将軍のおひざ元である江戸でも米騒動が起きて、千軒以上の米屋や商家が打ちこわしにあいました。
いっぽう京都では、人々が御所を拝んで、「今年豊作になしたまえ」と祈っていたのです。
藤田名誉教授は、この様子について「天皇を神仏と同列視し、その聖なる天皇の居住する御所に人々は参詣し祈願したのだろう」と書いています。【前掲『幕末の天皇』】
この時の天皇は光格天皇、「尊号一件」で幕府との対立も辞さなかった、強い意志の持ち主です。
人々の願いにこたえるべく、光格天皇はそれまでの慣例を無視して、幕府に窮民救済策を要請するように指示しました。
幕府の旧例主義を骨身にしみて知っている公家たちは、おびえて動こうとしなかったのですが、たび重なる天皇の指示で、関白鷹司輔平(たかつかさ すけひら)が幕府との窓口になる武家伝奏に交渉を命じます。
武家伝奏がおっかなびっくりで京都所司代に交渉したところ、なんと幕府はこれに応じて1500石の「救い米」を放出したのです。
まさに民衆の祈りがとどいたというべきでしょう。
朝廷は江戸時代の初めから幕府に押さえつけられてきたのですが、ここから朝廷の権威回復がはじまり、慶応3年(1867)の王政復古につながっていきます。
人々の祈りが歴史を変えるきっかけになった、と言っては言いすぎでしょうか。
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