光格天皇を怒らせた「尊号一件」

尊号一件とは 

 家斉将軍の父一橋治済が傍若無人なふるまいで皆を困らせたということを紹介しましたが、このわがまま隠居が原因で朝廷と幕府が対立するという大事件がおきてしまいます。

それが「尊号一件」です。

尊号一件とは、寛政元年(1789)2月に、朝廷から京都所司代に「光格天皇の実父である閑院宮典仁(かんいんのみや すけひと)親王に『太上(だいじょう)天皇』の尊号を宣下したいから許可してほしい」との要望が幕府に出されたが、老中松平定信が反対して許可されなかったという事件です。

光格天皇は閑院宮家の生まれですが、118代の後桃園天皇が皇太子となる男子がいないまま21歳の若さで亡くなったために、119代の天皇として皇位を継承しました。

余談ですが、閑院宮というのは宝永7年(1710)に新井白石の建言により、それまでの3宮家(伏見宮、桂宮、有栖川宮)に加えて新たに創設された宮家で、典仁親王は2代目となります。

白石は、徳川将軍家がそれまでに2度、将軍が直系男子にめぐまれず後継者として兄弟の男子を迎えていることに照らして、天皇家でも同様の事態が起きることを恐れました。

天皇家では皇位を継ぐ親王以外の皇子は出家して門跡となることから、兄弟の子供は期待できず、天皇家に男子が生まれなかったときに皇位継承者を出す存在である宮家の重要性は将軍家における御三家以上であると考えて、閑院宮家を創設し113代東山天皇の皇子直仁親王を初代に迎えました。

この白石の準備が功を奏し、閑院宮典仁親王の六男で当時8歳の祐宮(さちのみや)が皇位を継いで光格天皇となったのです。

光格天皇にとって典仁親王は実父ですが、徳川幕府が定めた朝廷のルール「禁中並公家諸法度」では親王の身分は三大臣(太政大臣、左大臣、右大臣)の次になっています。

つまり朝廷の席次では、天皇の実父典仁親王が天皇の家臣である公家の三大臣よりも下座におかれるのです。

このような状況に心を痛めた光格天皇は、父を太上天皇とすることで家臣より上位にすえようとして尊号宣下を望んだのでした。

光格天皇肖像(ウイキメディアコモンズ)


幕府と朝廷の対立

寛政元年(1789)2月、朝廷の幕府への連絡窓口である武家伝奏の久我信通(こが のぶみち)と万里小路正房(までのこうじ まさふさ)から、幕府側窓口となる京都所司代の太田資愛(すけよし)に、典仁親王へ太上天皇の尊号を宣下することの許可をもとめました。

太田が幕府にこれを伝えたところ、老中松平定信は太上天皇の尊号を冠することができるのは天皇の地位についた方のみだとして、「再議されたし(=ダメ)」と回答します。

翌寛政2年(1790)は天明8年(1788)の京都大火による焼失から再建された御所への還幸(引っ越し)があって行事続きだったため、尊号のことは収まったかに見えましたが、寛政3年(1791)1月、関白鷹司輔平(たかつかさ すけひら)から松平定信に、「(尊号要請は)孝行心からのことなので、幕府は考え直してほしい」との書簡が送られます。

定信は「心情は分かるが、道理に合わないので議論の余地なし」として拒絶する一方で、典仁親王一代限りで御領1000石を3000石に増やすという対案を提示します。

しかし朝廷は、天皇の地位に就かなかった方に太上天皇の尊号を宣下した前例があることに加えて、公家の多くも尊号宣下に賛同していることから、穏健派の鷹司関白を強硬派の一条輝良に交代させて、寛政4年(1792)1月にまたまた宣下許可の要請を行ないました。

これに対し幕府は却下で幕内の意思を統一しますが、朝廷に回答はせず、時間経過による終息を待つ作戦に出ました。

5月に入ると朝廷は幕府に早く回答するよう督促し、幕府は将軍に伺いを立てた上で、8月に「宣下の許可は出来ないが、経済面での配慮は可能」とこれまでと同じ回答をします。

しかし、光格天皇はなおも尊号宣下にこだわりました。

9月、朝廷は「神嘗祭があるのでその前の11月上旬に宣下をしたいから、許可してほしい」と要請、これに対し幕府は尾張・水戸の両家と家斉将軍の父一橋治済にも不許可の理由説明をし、全員が幕府案に賛成であることを確認して内部固めをします。

(ちょっと注意していただきたいのは、一橋治済はこの前年に隠居していて幕政に関与出来る立場ではないにもかかわらず、わざわざ彼の賛同を取り付けていることです)

10月、しびれをきらした朝廷は、幕府に「許可がなくても11月中旬に宣下する」と通告しました。

この通告は、朝廷は幕府の許可がなければ行動できないという、それまでの幕府と朝廷の関係を否定するものだったので、幕府は猛反発します。

定信はあらためて尊号宣下の不許可を命じ、要求推進の中心人物である議奏中山愛親(なるちか)と武家伝奏正親町公明(おおぎまち きんあき)の2名を江戸に呼び出して審問します。

そして、翌寛政5年3月に中山に閉門100日、正親町に閉門より少し軽い逼塞(ひっそく)50日の処分を下しました。

この事件は最終的に幕府が力で朝廷を弾圧したものであり、炎上した御所の再建などで良好になっていた朝廷と幕府の関係は険悪なものに変わりました。


松平定信の苦悩

なぜ幕府が、光格天皇の孝心を理解しているにもかかわらず、ここまで朝廷に冷たい仕打ちを行なったのか。

一般的には、「幕府に内慮をうかがって、その同意を得て行なうというシステムを、この尊号一件において朝廷側は否定しており、幕府としては力の弾圧をして、あえて統制の枠を引き締めざるを得なかった」※ のように説明されています

※高埜利彦『江戸幕府と朝廷』山川出版社日本史リブレット

しかし本当の理由は別なところにありました、それは一橋治済の存在です。

昭和3年の史談会で、旧宇和島藩出身で史談会会員の平井直がこのような話をしています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

尊号事情のよって起こるところは、深遠微妙なることにて、第百十九代光格天皇がその御実父の宮に太上天皇の尊号を宣下あらせられんとの叡慮あり。
関東(江戸幕府)においては、家斉将軍にはその実父治済を西城(江戸城西の丸)に請じて大御所と崇めんとの意あり。
いずれも孝道に基づいたので、中に就いて、江戸の方は将軍の意よりも実父の要求が多きをなして居るらしい。

それはともあれ、京都の方は別段政治上に関係はないが、江戸の方は大御所というものが出来ると至然の勢い、政令奥表の二途にわかれる。

これすなわち天下乱階の端これより生じはせぬか、越中守(松平定信)必死を覚悟して上は天皇の叡慮に逆らい、下は譜代の君主の意に悖り、涙を呑んで拒絶した。

【平井 直「松平越中守定信朝臣事蹟の一端」『史談会速記録 第374輯』】


当時の事情を知らないとわかりにくいのですが、京都で光格天皇が父親に太上天皇の尊号を望んでいた、その同じころに、江戸では家斉将軍の父一橋治済を大御所にして西の丸に住まわそうとする動きがありました。

京都は天皇つまり息子が親を気の毒に思ってのものですが、江戸の方は親である一橋治済からの要求です。

治済は、「自分は将軍の父親なのだから大御所として処遇せよ」と各方面に働きかけたのです。

幕府の役人たちは治済の傍若無人ぶりを知っていますから、もし大御所になれば権力を乱用することは目に見えています。

平井が「政令奥表の二途にわかれる」と語っているのは、政治権力が奥(=大御所)と表(将軍)に分裂して機能マヒを起こし、その結果「天下乱階」つまり国中が大混乱におちいることを定信は恐れたのです。

「京都の方は別段政治上に関係はない」と言っているように、典仁親王を太上天皇にしても幕府政治に影響はありません。

しかしそれを認めると、治済が「だったら俺も大御所にしろ」とねじ込んでくるに決まっている。

だから、光格天皇には申し訳ないが、太上天皇を許可するわけにはいかない、というのが定信の本音でした。

前回ご紹介した元幕臣の田中安国は、父親に聞いたとしてこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

光格天皇様の御尊父様の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を奉るのは易いことであるが、幕府においてそういう同様なことがあっては困る。
朝廷の御思し召しを貫かんとすれば幕府にそういうことができる、殆ど困ったことがある。
実にやむを得ずの事情あって遂には御承知の如きのお話になりましたことを聞きました。

(中略)

そういう傲慢無礼天下乱暴のことのために、典仁親王をもって太上天皇の御尊号を奉ることの出来ない訳は、(幕府)内部にその事情があるがために御尊号を奉らぬこと故に、松平定信も隠居して楽翁と称するも、終身の遺憾といわれたということを親爺から聞いております。

【田中安国「田中安国君旧時蘭医桂川甫周宅に於て修学中時事見聞談」『史談会速記録 第137輯』】


尊号問題がここまでこじれて朝廷と幕府の関係が険悪になったのは、一橋治済という傲慢無礼な天下の乱暴者を権力の座につかせたくなかったからだというのが真相のようです。

前段で尊号不許可に関して、本来なら要らない治済の確認を取り付けているのは、大御所にさせろと言わせないための布石だったのです。

光格天皇の気持ちを理解しながら、尊号宣下を拒み続けねばならなかった松平定信は、さぞつらかったことでしょう。

なお典仁親王は明治17年になってようやく太上天皇の尊号を追贈され、諡は慶光天皇となりました。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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