殿中はきたなかった

裃着用時の正装は裸足

 談話や講演においてはときおり「脱線」、つまり本来のテーマとは関話題に話題になってしまうことがあります。

書籍であれば推敲の過程でテーマに関係ない部分は削除されますが、講演記録だと脱線部分もそのまま残ってしまいます。

でも、これが結構面白いんですよね。

今回ご紹介するのは前々回の「御所にお参り」で取り上げた、旧桑名藩士の加太邦憲(かぶと くにのり)の講演です。

彼が大正6年の維新史料編纂会の講演会で、幕末に主君である松平定敬(さだあき)が京都所司代をつとめていた時のようすを話しました。

そのなかで、定敬が朝廷から宮中において「襪(しとうづ)」の着用を許されるという栄誉をたまわったことを述べたとき、話が「脱線」したのです。

加太の説明によると、襪というのは公家が装束を着けたときに履く浅沓(あさぐつ)用の足袋で、親指のところが分かれていない靴下のような形になっています。

これは38歳以上の者が特別の式の時にしか着用できないものだそうで、それを19歳の定敬に許されたのは格別の栄誉でした。

という説明をしたときに、加太は脱線してこのような話をしました。


士(さむらい)が平生足袋を穿(は)きますけれども、裃(かみしも)を着ると足袋を穿かれませぬ。
それでどうも殿中が穢くて足袋を穿かずに出ますと、足の踵(かかと)が真黒になる。
裃を着けて長く座りますと、其の為に裃の尻が黒くなって仕舞う。

実に誰も困った。

それで藩などでも足袋を穿きたい者は病気で足が冷ゆるから足袋を御免じを願うと云う願書を君公に出して、許されて足袋が穿けました。

之に能く似て居ります。

陛下の御前でも覆うた物なしに、足はむき出しであったそうであります。

是等のことは大原伯爵に聞き正しまして私も明解しました。

【加太邦憲「桑名藩京都所司代中の事情」『維新史料編纂会講演速記録一』マツノ書店復刻】


定敬が許されたのは宮中での襪着用です。

しかし加太は宮中にあがれる身分ではないので、ここで彼が「殿中」と言っているのは桑名城のことだと思われます。

武士はふだん足袋をはいているのですが、裃を着たときは裸足がルールでした。

ところが殿中(城の中)がきたないので、裸足で歩くと足の裏とくに踵が真っ黒になったようです。

そのよごれた足のままで正座すると、踵があたる尻の部分の裃によごれがついて黒くなってしまいます。

これに困った武士たちは、「病気で足が冷えるため、足袋の着用を許可してください」と願い出て足袋をはいたとのことです。

足袋をはいて座れば、足の裏が尻に当たることはありませんから、あとでよごれた足袋を洗うだけで済みます。

正装である裃を着用したときのドレス・コードが裸足というのは不思議な気がしますが、加太が公家の大原に尋ねたところ、宮中でも裸足がルールだったから天皇の前でも皆裸足でいたとのことでした。

姫路城の城内(ブログ主撮影)


加太が話した内容は京都所司代の役務や桑名藩の事情だったのですが、殿中がきたないという部分が興味を引いたのか、講話が終ったあとの質疑応答でこんなやりとりがありました。


〇問(黒澤君)是は余談でありますが、先程御話の中に、殿中が汚れて居って足袋が一遍で黒くなると云うことでありましたが、昔でも城の中は拭き掃除が行届かなかったのでございますか。
〇答 昔から寺と殿中は穢いものと云う言葉があります。
寺も殿中も広き故に掃除が不行届で穢いものでありました。

それで裃を着て殿中へ出るときは、足の冷ゆるを名として願出まして足袋を穿いたものであります。

【加太 前掲書】

寺や城は広すぎて拭き掃除が行き届かないから、床がきたなかったということです。

上の写真はブログ主が以前姫路城を見学したときに撮ったものですが、あらためて見るとここを毎日雑巾がけするのは無理だろうと思ってしまいます。

ところで、ふつうの裃なら足の裏がよごれるだけですが、裾を引きずって歩く長裃の場合はどうなるのか、気になりませんか?



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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